文殊師利大乗仏教会
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本日のことば
Today's Voice
本日の言葉
多くの仏典の言葉から、日々ひとつひとつの言葉に向き合えるためにいくつかの連載をしています
弥勒仏への悲讃
参学への道標
水の教え
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第10回
もう戻れない別れの意味を感じて
私たちは一人でここに生まれてきて、一人ここで死んでゆく。出逢いがあれば、別れがあり、どんな素晴らしい出逢いでも、それは別れの時を迎えなくてはならない。落葉が元についていた場所に戻ることもないように、私たちがどんなに仲良くし共に楽しい時を過ごしていたとしても
2022.09.13
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第9回
移ろいゆく時に立つ樹のように
仏教を実践するための暇とゆとりに恵まれた有暇具足の人身を得ていても、この生をいま活用しなければ、ここに永遠に留ることができるようなものではない。すべては移ろいゆき、無常であり、一瞬たりとも時の流れを止めることなどできないし、時の流れを逆転してやりなおすこと
2022.09.10
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第8回
毒ではなく甘い果実を
マンゴー(菴摩羅)の果実が獲れるマンゴーの樹はウルシ科に属する樹木である。ウルシ科の樹木には、マンゴーやピスタチオやカシューナッツなどの食用の果実をつけるものもあるが、ツタウルシやヤマハゼなど食用では使えない種類のものの方が多くある。ウルシ科の植物は、通常
2022.09.09
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第7回
マラヤ山の白檀のように薫る私たち
この世界のなかには最勝なる山であるマラヤ山(摩羅耶山・牛頭山)という山があり、その麓には、純白色をした栴檀の樹が生えており、この栴檀のことを「牛頭栴檀」というが、その樹は根も芽も葉も茎もすべて、甘美な香りを漂わせている。この樹木の香りは、心を落ち着かせ、病
2022.08.31
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第6回
棘や毒は不要なものである
棘があるものや毒がある樹木など 必要ないのにこの地上には溢れている ゆとりがなく悪趣へ生まれた者は この大地の砂の数のように無数にいる 6 私たちはいま仏道修行をするのに相応しいゆとりのある環境に生まれている。このゆとりは八つに分類できるものであり、それを
2022.08.29
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第5回
新芽と水滴
きちんとした指導者につき、ちゃんと学ぶためには、私たち弟子の方もよい学生、よい弟子であろうとすることが大切である。正しい弟子であるためには、偏見や主義・主張に陥らず、いつも公明正大で、客観的態度をもっていることであり、指導者たちが教えてくれることを自分で実
2022.08.28
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第4回
畏敬の念がこそが人を成長させる
何かを学ぶため、きちんとした指導者につき、ちゃんと学ぶためには、私たち弟子の方もよい学生、よい弟子であろうとすることが大切である。
2022.08.27
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第3回
すべての願いを叶えてくれる樹木の王のように
カダム派の祖ポトワは、これまでずっと地獄や畜生などで迷い続けてきた人間が、いきなりこの人間の境涯に生まれてきて、その生まれたばかりの状態では、これからどうしたらよいのか分からないのは当然である、と説いている。
2022.08.25
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第2回
木漏れ日の射す劇場で
深い森のなかを歩いていくと、少しだけ開けた場所へと辿りつく。そこはよく陽が当たる場所であり、見渡しも良く、空の面積も広い。木漏れ日だけしか浴びていない時には感じられなかった清々しさもあり、古く朽ちた大木が横たわっていれば、すこしそこに座ってみたいという気持
2022.08.18
グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第1回
巨大な樹木のような
深い森のなかを歩いていくと巨大な樹に出逢うことがある。砂漠化した荒野を歩いていくと巨大な樹に出逢うことがある。最初は遠くからそれを見かけただけであるが、不思議にその樹に引き寄せられていく。
2022.08.17
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第32回
実体法に関するさまざまな遍充関係
ある基体が有るならばその有の証解、 無い場合にはその無の証解のすべて、 その対立とその別異者のそのすべて、 否定基体をもつ法である場合には、 所遍・関係者・依存者のすべて、 事物であれば因・果のそのすべて、 それがそれ自体たる諸法である場合は その抽象との
2022.08.12
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第31回
汝は汝であり、汝でないものは汝ではない。
この実体法というものとそれに準ずるものは、 汝は汝であり、汝でないものは汝ではない。 自体である抽象法とそれに準ずるものは、 汝は汝であり、汝でないものも汝である。 自体でない抽象法とそれに準ずるものとは、 汝は汝でなく、汝ではなくとも汝ではない、 このよ
2022.08.03
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第30回
確定してゆかねばならない規定の全体
確定してゆかねばならない規定は 実体法と抽象法 対立者と関係者 普遍と特殊 定義と所定義 因果 有と無の証解 肯定・否定の反定 肯定否定遍充、否定基体 計算法 先後拘束法 循環式の十三項目である。 本書は、有法という分類の基盤となるものが何であり、それを分
2022.08.02
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第29回
悪業・無記・積み重ねるもの
不善の代表的なものは、十善の逆の業である十不善であるが、殺生・偸盗・邪婬という三つの身不善業すなわち悪しき行動、妄語・綺語・悪口・両舌、の四つの語不善業、すなわち悪しき言動、慳貪・瞋恚・邪見の三つの意不善業、すなわち悪しき考えである。これがまずは悪の代表者
2022.07.25
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第28回
衆生利益のため精進すべき善の全体像
意に沿った結果をもたらすことを明確に予告可能なものを善というが、具体的に善であると言われるものにどのようなものがあるのか、ということをここでは列挙している。
2022.07.24
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第27回
対象の分類法である善悪の基準を知る
善悪は、誰にとっても日常の最大の関心事ではあるし、誰しもが善悪とはこういうものだという固定観念をもっている。しかし仏教の教義では、善悪はどうやって区別するのか、そもそも何を善として、何を不善すなわち悪として、何を善でも悪でもない中立的なものとするのか、とい
2022.07.20
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・最終回
大粒の雨を降らせて
このように行じて果を成就する時 三世の勝者の仏身と彼の仏国土と 眷属 活動 寿命 請願の一切を ひとつに集めた一切のこの行法を 賢く巧みに行じ円満したその後に 永く思いを込めたこの衆生たちへ 正法の甘露で大粒の雨を降らせて 一刹那にして私が救いだすように
2022.04.27
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第37回
天空を飛び回る鳳凰のように
勝子として聖者地を学んでゆく時に 三世の勇者たちのいるすべての地を ひとつずつ私は訪ねて巡ってゆこう 鳥たちの路を飛び回る鳳凰のように 他の勝子たちにも量り得ないほどの 広大極まりない所知の要のすべてを 淀みなく知る智慧を滞りなく発動し 広大なる行法の源流
2022.04.26
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第36回
不屈の孤高の勇者として
私たちが菩薩として生きる決意をしても、真実を現観し聖者となるまでは、無我の真実を現観することもできないし、苦しみの原因である煩悩を断じることもできない。どんな苦難に遭遇しようとも、如来が示した真実から目を背けることなく、そこに涅槃寂静という救済があることへ
2022.04.25
ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第35回
暴力や恐怖の連鎖ではなく、愛と人道的な救済の連鎖を
遠い寒い外国の人たちが争っているのではなく、銃をもって人を殺している人たちも、殺されそうになり怒りと悲しみに怯えている人たちも、私たちと同じ幸せを望み、苦しみを望まない人たちである、ということをまずは、いま思い直してみる必要がある。この混乱を終息させるため
2022.02.26
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