2023.08.03
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

ばらばらな豆を運ぶために

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第38回
訳・文:野村正次郎

臣民を虐げている横暴な君主には

服従しても忠誠を誓う者はいない

山積みの豆を棒で突いたとしても

棒の側へと留まる豆は皆無である

38

人々の心をしっかりと掴んで、集団全体の利益を実現していくことは、集団の指導者の責務である。人々の心は暴力では買えないし、暴力によって民衆から搾取した物品を不公平に分配しても、人々の心は掴むことはできない。ましてや日常的に人々をないがしろにし、時には弾圧し、すべての人々の幸福を追求する権利を阻害しているのならば、人々はついていかない。

権力を持っている者は、その権力を正しく法に従って行使しなければ、思わない時に民衆の蜂起が起こったり、命令体系が機能しなくなったりする。指導的な立場にある者は、その集団を正しく導き、より幸福で豊かな集団生活を実現することがその責務であるが、その職務を怠っていては、人々が謀反を起こしたり、私服を肥やすために、共通の財産を強奪していったりすることもまた自然現象であるといえる。

本偈はこのことを山積みにした豆と棒に喩えている。ひとつひとつの豆は小さく柔らかいものであるので、棒でひとつの豆を粉々に砕くこともできるし、どんな仕打ちを与えることもできる。しかしひとつひとつの豆はどんなに小さくともばらばらなものが一時的に集まっているだけなのであって、棒で突いたらその棒に豆がひっついていってくることはない。豆の集積を動かそうと思えば、正しい方向へと丁寧に棒を使って、器に入れて運んだりしなくてはならない。また棒に豆が引っ付くように何か粘着性のあるものを表面に塗って、豆の山のなかに突っ込んでも、一部の豆が引っ付いてくるだけであり、豆の山全体を動かすことなどできない。暴君が一分の家臣だけを重用していても、その彼らも謀反を起こす可能性は常にあるし、民衆はばらばらと敵軍へと去っていってしまうのならば、民衆全体を正しく導くという仕事すらなくなってしまうのである。

国家を運営する君主であれ、会社を運営する経営者であれ、家庭を運用する家長であれ、決して思い上がらないように気をつけて、自分は実は無力でちっぽけな棒のような無力な存在であり、大事なのはひとつひとつの豆の方である、ということを決して忘れないようにすることは、大切なことである。豆の動きの特性を公明正大に理解し、一粒一粒の豆がもっている意志を尊重し、その山全体を注意深く、よりよい方向へと動かすことができる能力は棒にはある。豆の方も、きちんと棒に自分たちの意思を伝えなければ、棒が豆の望んだ未来の目標などわかることはない。粗暴な棒がある時には潰されないに時には服従することがあっても忠誠を誓うべきではない。私たちのこの生は豆であるときもあるが、棒である時もある。豆である時はよりよい豆となり、棒であるときはよりよい棒になれば、どんな立場になったとしても決して思い上がらずに、臨機応変に対応していけば不安はないだろう。この豆と棒の喩えよりなる本偈は処世術の基本を教えている。

ばらばらな豆はすぐに転がっていく

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