2023.10.10
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

他者を傷つけない装いをする

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第43回
訳・文:野村正次郎

部下や周囲を困憊させる主人は

どんなに豊かでも慚の因である

どんなに大きな幹であろうとも

枝葉が無ければただの裸である

43

どんなに中心にある幹が立派で大きく太くても、枝葉がなければただの裸木である。枝葉もない樹は枯木のように役にたたない樹であり、果物が取れることもないし木陰でのんびりすることもできない。これと同じように中心人物が、周囲の人々や立場の低い弱い者たちを思いやることもなく、好き勝手し放題にし、裸一貫でただ威張り散らしているだけならば、周りの人たちはそばにいるだけで疲れてしまう。そんな状況は、どんなに豊かであろうとも何も誇れるものではない。そんなところにあるのはただ慚という感情の源でしかない、と言うのが本偈の主旨である。

「慚」という感情は所謂「恥」という日本特有の社会的な低評価を恐れて自粛自重する感情とは少し異なった感情である。このことには少し注意が必要である。

「慚」とは、自分自身の行動・言動・思考を客観的に考え、そのような悪行を犯せばその業果として自分が困難な状況に至ってしまうので、そうした業はやめようとする自発的な感情である。この感情は悪行を自ら戒め律す「戒」の土台となり、心所法の十一善法に分類される感情のひとつであり、その本質は常に善である。しかるに「慚」という感情を抱き、他者の不幸をつくりだすことを自重し、他者の幸せのために活動する姿勢そのものが善行であるということになる。出家者であれ、在家者であれ、敬虔な仏教徒ならば「私は釈尊の弟子のひとりであるから、悪行は自分には相応しくないのでやめておこう」と自重したいと思うだろうし、その態度そのものが善の実践で、修行であると言える。

「慚」と対になる感情として「愧」というものがある。これは、自分自身の行動・言動・思考を客観的に考え、そのような悪行を犯せば、天眼や仏眼をもつ如来や菩薩たちが残念に思ったり、世間を混乱させたり、低評価される可能性もあるので、悪行を自重しておこうという感情のことである「愧」は日本人特有の「恥」の感情とよく似てはいるが、他者の低評価を危惧するのではなく、あくまでも他者に不快感を与えることを自重する感情であり、これも「慚」と同様に「戒」の土台となり、心所法の十一善法に分類される感情のひとつである。しかるにその本質は常に善であり、「慚」と同じように他者の幸せのために抱いている感情のひとつであり、その精神状態それ自体が善の実践であり、修行であると言うことができる。

慚愧は、両方ともが自己の身口意の所業を放逸にしてしまえば、自己あるいは他者に悪影響を及ぼすので、そうした所業をやめておこうとする自重の感情である。それは両方ともが戒の基礎を形成する感情であり、この感情をもつこと自体が、善業を積むことであるし、利他行である。だからこそ如来や出世間の聖者たちにはこの慚愧の感情が決して途切れることなく常時発動させているのであり、彼らが決して他の衆生を傷つけないことの理由や根拠ともなる。

慚愧と「恥」の最大の違いは、「恥」とはあくまでも世間による好評価を期待し、低評価を危惧する所謂「世間八風」の活動であるということにあるだろう。確かに「愧」は、「恥」と同様に他者への影響、すなわち「他者の眼」を想定して自らの行動や言動を自重する感情である。しかし「愧」の場合の「他者の眼」とは、その中心は、「恥」のように煩悩に満ちた世間の眼からの評価を考慮したものではないのであって、如来や菩薩たちが常時私たちに降り注ぐ慈悲の仏眼が中心であると言うことができる。私たちが羞しいのかどうかを気にすべき「他者からの注目」とは、あくまでも如来や菩薩たちが私たちを常に見守ってくれているその視点や注目である。この世界の中心に自分がいて、その自分だけが想像できる範囲の悪意や善意に満ちた世間の監視のなかでどう写っているのか、ということは全く気にする必要はなく、同時にそのような自己中心的な世界観それ自体が、仏法僧というこの世界で最高の価値をもつ宝石なものを拠り所として帰依して生きる仏教徒には相応しくないもとして退けていかなくてはならない世界観なのである。

日本人の「恥」「体裁」や「型」の文化は、時にはさまざまな軋轢を生み出してしまっているがそれ自体決して悪いものではないだろう。私たち日本人は古来そのような世界的にも特異な文化の遺伝子を引き継いでいる。さらにその上で、私たちは日本の仏教徒であり、仏教徒は衣を着ないで裸で過ごすことそれ自体が修行であるとする誤った考えをもつべきではない。

私たちが日本人で仏教徒である限り、「公衆の面前」というものがただ自己を中心とした煩悩に溢れた世間だけではなく、そこには常に如来や菩薩たちという出世間の存在たちが私たちを常に見守ってくれている、という感覚をもつことは極めて重要である。もしもそのような感覚をもつことができるのならば、釈尊が教えてくれる慚愧といった、より洗練された精神状態へと自分たちの心を高めていくこともできる。そこには確実に如来や菩薩たちもいらっしゃる公衆の面前で、恥ずかしくも裸を晒して生きるのではなく、決して他者を傷つけることのない意思表示たる慚愧や戒という薫り高い衣をきちんと纏って生きることこそが「洗練された和の装い」と言えるのではないだろうか。

非暴力の意思表示である法衣をまとって慈悲を説かれるダライ・ラマ法王

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