2023.10.17
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

蜜蜂たちが楽しく集うように

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第45回
訳・文:野村正次郎

悪い指導者から部下や関係者は逃げてゆく

良い指導者には追い払おうとも集ってくる

蜜蜂たちは棘のついた樹に見向きもせずに

菴摩羅の樹には追い払っても集まってくる

45

思いやりがない悪い指導者のところでは安心できないので、部下や周囲の人々たちは自然と逃げていくものである。これに対して良い指導者のもとには、そんなに来ないでください、いくら断っても自然に人々は集まってくるものである。これは棘だらけの樹には蜜蜂たちは見向きもせず、甘い実をつける菴摩羅あんまら(マンゴー)の樹の周りに集まってくるのと同じである。

どんな生物であっても、幸福で安心でき、不安や恐怖と共にありたくないと思うものである。それは虫であろうと人間であろうとこれは同じであり、他者への幸せや何かよいことが期待されるところに人々は集まりたいのであって、わざわざ不安や恐怖に満ちたところに集まりたくはない。欲望を剥き出しにして、自己顕示欲で周囲にあたり散らしており、嫉妬や競争心の塊のような人のところで過ごしていたいと思う人は誰もいない。

デプン大僧院は、一四一六年にジェ・ツォンカパの命を受けて、高弟ジャムヤンチュージェ・タシーペルダンが開創したものであるが、チベット最大の僧院であり、1959年に公式には7700名の僧侶が暮らしていたといわれているが、実際には1万人以上がいたとされている。そのうち5000名以上がゴマン学堂の僧侶であったが、デプン大僧院はその後、人民解放軍に占拠され、12世紀の今日でも中国共産党指導部によって何年も閉鎖されていたりしている。インドへと命からがら亡命したゴマン学堂の僧侶は約100名に過ぎなかったが、その後チベットに戻ったものや還俗して軍隊に入った者、インドの気候や天然の毒ガスで死んだ者たちがいたので、1969年に現在のムンドゴッドの難民居留区に移転した時には僅か60名の僧侶しか残っていなかった。

元々ラサのゴマン学堂には5000名の僧侶が在籍していたといわれるが、これはゴマン学堂に関連した地方僧院からの僧侶たちが留学に来てそのような人数になっているのであり、詳細な現状での統計データは存在しないが、現状のチベット自治区・自治県にある地方僧院の僧侶の総数を合計すると2万5千人以上の僧侶がおり、モンゴルやロシアを含めるとさらにその数は遥かに多いことが分かる。現状のゴマン学堂系列の僧院の総数が3万人以上とすれば、現在ゴマン学堂に来て20年近くの学問修行をしている学僧が約2000名いるが、地方僧院などから本山ゴマン学堂に留学に来ている比率としては10人に1人にも満たない。本山では特に最低でも17年以上も学問修行を行わなければならず、毎年課せられる暗記試験・問答試験・記述試験に合格しなければ、落第するので大変厳しい修行が待っているので当然といえば当然である。

特に今日のようにチベットからインドへと秘密裏にヒマラヤを歩いて超えて亡命しなければならない時代でも、亡命途中で射殺され、もう二度と故郷に帰ることも親兄弟や親戚や友達にも二度と会えないかもしれない可能性もあるにも関わらず、求法の徒は増え続けている。これに対してチベット本土のガンデン、セラ、デプンなどの大僧院では本来の修行ができないだけではなく、時には閉鎖され、仏典ではなく、共産党の国家主席の思想を学ぶことが強要されたりしている。

デプン大僧院が最初にジェ・ツォンカパが高弟であり仏典の講義を行なっていたジャムヤチュージェに命じ仏典の聞思を中心とした創立された時、この僧院は「母よりも子は立派育つだろう」と将来を予言したと言われているが、本来チベット本土で活動しているはずの僧院から一部の人たちが亡命して復興したインドの亡命居留区の僧院は、現在チベット本土の本来の僧院よりもはるかに規模が大きく、学問修行にしても大変充実している。彼らは伝統の護持発展こそが仏法興隆であると共通の認識をもち、日々仏典の言葉を師僧から聴聞し、暗記し、問答し研鑽しつづけている。

ダライ・ラマ法王猊下もよく説かれているが、仏教というのは心の問題であるので、民族や言語や立場などの区別をすべて超越し、この六道輪廻からの解脱や一切衆生を利益できる如来の境位を目指して行うものである。しかるにひとりの人間が現世での報酬や名声や評判を目指して行うことでもないし、便宜的な集団生活のユニットである宗派や出身などとは無縁のものでなくてはならない。日本人であれ、漢人であれ、チベット人であれ、インド人であれ、西欧人であれ、民族や言語の壁を乗り越えて、求法研鑽を志す者たちは、釈尊という素晴らしい指導者の教えを大切にし、たとえ今生では修行途上で生命が尽きてしまうことがあろうとも、解脱と一切相智を実現するまでの間、何万劫もの時間をかけて歩んでいく遠い道のりを歩いているのである。仏教徒が気にするべきことは「たった一度きりの人生をどう過ごすか」という短期的な計画では決してないのであり、「菩提にいたるまで繰り返していかなければならない生死流転をどう過ごしていくのか」という悠久の時のなかで閑雅に精進していく、長期的な永代の計画である。

マンゴーの樹に集う蜜蜂たちは、身が熟すまでは待たなくてはならないが、よく熟した最高の甘露を味わう目的で集ってみんなで過ごしている。私たち仏教徒は、これと同じように無上正等覚という正法の甘露を味わうために集う、暴力を好まず、慈悲と平和を希求する善き仲間なのであろう。


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