2023.08.18
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

怪我をしないように気を付ける

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第41回
訳・文:野村正次郎

棘のある樹に寄りかかるなら

体に刺さって痛くて辛くなる

悪しき人を頼っているならば

次々に苦しみだけ起きてゆく

41

棘がある樹に寄りかかっているのならば、自らの体の圧力でその棘が自分の体に刺さり痛くて辛いだけである。これと同じように悪き人物を当てにして頼ってばかりいるのならば、次から次へと問題ばかり起こり、困難な状況ばかりをつくりだしてしまう。だからこそ、辛く耐えられないほどの苦しみばかりを望まないその限り、私たちは常に悪き人を頼りにすることはなく、善き人を頼りにして生きていかなければならない。本偈はそんなあたり前のことを想起させている。

それでは悪人、善人とはどんな人であろうか。あの人は善人そうに見えて実は悪人であった、あの人は悪人のように見えて実は善人であった。他人が善人なのか悪人なのかを見分けることは簡単ではない。大体の場合には、あの人はこんなことをしてくれた、あの人はこんな仕打ちを私にしてくれたという自分との関係のなかで私たちは他人のことを判断している。仏教が無我を説いていることや、一切衆生への平等な慈悲を説いていることや、仏教以外の宗教でも自己犠牲や平等な愛を説いていることくらいは何処かで聞いたことはあるにしても、他人を善人なのか悪人なのか、自己中心的な視点で私たちは他人を判断してしまう悪き習性をもっている。だからこそ、よく考えもせずにあの人は自分にとって心地よいことを提供してくれるので善人である、あの人は自分にとって心地よいことを提供してくれないので悪人である、そんな判断をいつも繰り返し、問題ばかり起こり、辛く苦しい状況ばかりを作り出して私たちは生きている。しかしそもそも多少なりとも物事を考える能力があるのならば、そんな考え方が間違っていることにまずは気づいていく必要がある。

仏教において善悪とは、他者に楽を結果として提供するのか、苦しみを結果として提供しているのか、ということで明確な判断ができるものである。他者に役立ちたいという意思に基づいた行動や言動や考えは善業であり、他者を害したいという意思に基づいた行動や言動や考えは悪業である。しかるに自分たちだけが何かいいことがあり、他の人が犠牲になってもいいという利己的な動機に基づいた行動や言動や考えはすべて悪業であり、逆に自分たちにとっては対して役に立たないことでも、他の人たちにとっては役立つ可能性がある行動や言動や考えはすべて悪業である。しかるに正直で誠実でいても馬鹿を見るといっている人は実は悪人であり、多少なりとも他の人に役立ちたいと思って行動し、発言している人はたとえ目立たなくても、一時的な繁栄はしていなくても善人であるということになるのである。

しかしそもそも人や心といったものに善悪があるのか、どうかということを問いかけてみるのならば、人や心には善悪はない。善悪とはあくまでも業であり、ある人それ自体が悪であることや善であることはあり得ない。しかるに私たちはどんな人でも「善人」であることも出来ないし、「悪人」であることも出来ないし、同じ原理で「善なる心」しか持っていないこともないし、「悪しき心」しか持っていないこともあり得ない。そこには「善あるいは悪を行っている人」、「善業あるいは悪業を行っている私」がいるだけであり、どんな人であろうとも、どんな心であろうとも、人それ自体や心それ自体は、業の主宰者に過ぎないのである。これはちょうど「善い手」や「悪しき心」というものがないのと全く同じことだということが出来る。

だからこそ厳密にいえば、「善い人」になろうとすることも出来ないし、「悪い人」になろうとすることも不可能であるし、「善い心」にはなれないし「悪い心」になることも出来ないのである。私たちができるのは、善業を行う人なのか。悪業を行う人なのか、という選択肢を自分たちで決めることであり、私たちの心もまた、善なる方向を志向する心の活動をするのか、あるいは悪き方向を志向する心の活動をするのか、のどちらかである。

私たちが人身というこの身体をもっていることそれ自体が無限の価値があり、本来は清浄であり、光のようにすべてのものを照らし出しながら正しい心の動きをする能力をもっていること自体も無限の価値がある。棘だらけの植物も棘だらけのハリネズミも、決して「悪い植物」「悪い動物」ではないし、棘だらけの人も決して「悪い人」ではない。それは私たちが「悪い人」ではないのと同じことである。ただ気づかないうちに自分の心に棘を生やして悪い方向を目指してそういう棘のある心や人に寄りかかっているのならば、怪我をしてしまうだけなのであろう。

どんなに小さなことでも、それらは他者を幸せにする善なる方向に向かうのか、あるいは他の衆生を傷つける悪しき方向に向かうのか、その選択肢は私たちにある。棘だらけの植物や棘だらけの動物や棘だらけの人は、私たちがどんな選択肢をとったらよいのかを教えてくれる先生である。本偈は私たちが棘あるものに寄りかかって暮らすべきなのか、他人に苦痛を与えないように棘のない暮らしをすべきなのか、そのどちらが賢い選択なのか、ということを教えてくれている。

棘だらけのハリネズミも悪い動物ではない

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