2023.10.11
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

危険を察知して避難する

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第44回
訳・文:野村正次郎

腐った幹の根元に留まる人は

昼も夜ものんびり過ごせない

悪い主人の部下や周辺の者は

常に不安で落ち着かなく辛い

44

内部が腐った大きな木があるとして、その根元や側に留まっている人たちは、昼も夜も決して落ち着いて過ごすことができない。何故ならば内部に腐敗した部分があるので、木全体が倒壊してしまう危険性があるからである。これと同様に悪いことばかりしている指導者の権力の部下やそのような人と関わっている人は、常に何が起こるか不安で落ち着かない。そしてこの状態は辛く悲しい苦しみしか生み出さないのである。

心を不安定にし、心の平安や静寂を掻き乱すものを仏教用語では「煩悩」と呼ぶ。この「煩悩」には真実や将来が分からない「痴」無知な状態と、その先の見えない状態のなか、あれやこれやと過剰に考えて、これは自分にとって快適なのでそこから離れたくないという「貪欲」、すこし嫌なことがあることに過剰に反応し、憎悪したり嫌悪したりする「瞋恚」という根本となる貪瞋痴の煩悩の三毒が起こる。この煩悩の三毒が様々な思考・言動・行動を動機付けして、苦しみの連鎖を生み出していく。私たちが楽観的に結構楽しく過ごせていると思っているのは錯覚であり。苦しみの真只中を生きており、腐った樹の根元に留まっているように、輪廻に留まっていることを知ることが苦集滅道という釈尊が説かれている四聖諦の基本的な発想である。この腐った樹から離れる、すなわち解脱することが出来るということが仏教の目指している救いの境地であり、それは腐った樹の下から一刻も早く避難して、安心安全で不安定要素が全くなくなった滅の境地、すなわち涅槃寂静の境地を実現するということそれ自体が救いなのである。

現代の私たちの多くの人々は街中に住んでいて、そもそも腐った木の下でのんびり過ごしているということなんてないので、こんな喩えでも想像しづらければ、腐った木ではなく、木造の腐った木でできている倒壊寸前の建物のなかにいる状況を想像してみるとよいだろう。

この腐った建物はドアや柱や梁だけではなく、土台部分までもが腐っている大変危険な状況である。そんな腐った建物が倒壊してしまう可能性は100%である。もたもたしている余裕はないし、直ちにこの腐った建物の外へと脱出する必要がある。建物の外からは避難の順序や手引きを教えてくれる声が聞こえてくるが、この建物から脱出するのははじめてだし、長年気に入って過ごしていたこの建物にはひどく愛着があるので、もうちょっと大丈夫じゃないですかね、と敢えて避難の指示に耳を傾けようとしない。耳を傾けても、避難の仕方の手引き通りに逃げようとせず、スマートフォンで検索したりして逃げるコツみたいなものを探してもっと楽に逃げる方法はないかなともたもたする。あるいはそもそもこの建物が腐ったのは、あいつのせいだ、あいつが悪いからこの建物の土台までが腐ったに違いない。だからあの元凶を成敗しなければ、この建物は大丈夫だ、と間違った考えで同じ倒壊寸前の建物のなかにいる他の人に危害を加えようとするのならば、大幅な時間のロスとなり間に合わなくなってしまうだろう。あるいはまた、あの外の安全なところにいる人は、自分たちのようにこんな危険な状態ではないところから私たちに危険が及んでいるとかネガティブなことばっかり言ってけしからん、やつらの言うことなんて聞く必要はない。やつらやこの腐った建物が嫌いなだけだろう。でも私たちはこの腐った建物は大好きだ。だからもしもこの腐った建物が倒壊してみんな死んでも本望だろう。よし、みんなでこの腐った建物のなかで競いあって、この建物に愛情深い者から順番にこの建物のさまざまな資産を活用できるようにすればいい。ただなんとなくここに住んでいるやつらなんて死んでしまえばいいのだ。ここには資源にも限りはあるし、腐っていて倒れてしまう、という情報もある。この建物では弱肉強食が掟だ。弱いものたちには残念ながら死んでもらおう。こうして腐った建物のなかでは、さらなる争いや憎しみ合いが生み出され、自分たちが気に入らない集団の居住地域はぶち壊してしまえ、と倒壊寸前の建物が倒壊する速度をはやめることに努めてしまうのである。

腐った建物や腐った木の下でのんびりしていること自体が悪なのではない。同様に煩悩という悪しき主人に支配されて娑婆世界の輪廻に留まっていること自体が悪なのではない。それが現状なのであり、その現状は危険なので直ちに避難した方がよい、出離した方がよい、というのが建物の外の安心安全なところにいる人たちの声なのである。もちろん建物の外から救助隊の勇者たちがこの建物のなかに救助しにやってきてはくれる。ここまでやってきてくれて、「さあ脱出しまよう」とやさしく声をかけてくれても断固として聞かなければ、救助隊の人たちもまずは素直に脱出してくれる人たちから救助していくのもやむを得ない。何故ならば、ひとりでも多くの人を救出しなければならないのが救助隊の使命であるからである。

釈尊は「自分だけが自分の主人である。自分だけが自分の敵でもある。良いことをするのか悪いことをするのか、その判断をするのは自分である」と説かれているが、腐った木や建物からはなるべく早く離れて逃げた方がよい。これと同じように腐りきった輪廻からは直ちに解脱するための方策をとった方がよいに決まっている。本偈はそんな当たり前で将来に不安のない選択肢を提示するものである。

森のなかで自然に倒壊している木を見れば、そこは長期滞在のテントを張るのに相応しくない場所であることが分かる

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