2023.10.24

ゴペル・リンポチェの自己紹介(1)カム・リタンに生まれて

ゴペル・リンポチェの自己紹介
お話し:ゴペル・リンポチェ/訳・文:野村正次郎

〔運営事務局より〕久しぶりに来月からゴペル・リンポチェが来日されます。リンポチェのプロフィールについてすでにご存知の方も多いですが、そうでない方もおられますので、何回かに分けてリンポチェが以前自己紹介で語られたお話しを紹介させていだきたいと思います。

自己紹介をさせて頂きます。チベットには、ウツァン・カム・アムドという三つの地方があります。私が生まれたのはチベットの東南地方であるカム地方のリタン(中華人民共和国四川省カンゼ・チベット族自治州理塘県)という場所に1973年に生まれました。我が家は男三兄弟いまして、一番上が、みなさまもご存知のアボ、ロサン・プンツォです。私には姉がいますが、五人兄弟の4番目です。

小さいときはただのこどもです。九歳まではただの子供として過ごしました。九歳から十六歳までは中国人が運営している中国式の学校に行きました。

リタン大僧院にて出家する

そして十六歳の時に学校を辞めて出家することとしました。そして出家してリタン大僧院に入門しました。兄は二人ともリタン大僧院に出家していましたので、両親は私に家を継がせようと思っていたのですが、家を継ぐよりは僧侶になって仏教を学んだ方がいいと思いましたので、何度も両親を説得して両親も納得したので、出家できることとなりました。いろいろ問題がありましたが、それを乗り越えてこうして十六歳で僧院に入ることができ、最初の一年間は、僧院で僧侶たちが集まって勤行を行う時の勤行のやり方を十七歳まで学びました。

リンポチェの故郷リタン。どこまでも草原が広がる美しい土地です

ドゥンケンになる

十八歳になった時には、リタン大僧院の「ドゥンケン」といって深夜から早朝まで、白法螺貝やドゥンチェン(チベットの僧院で使用する長いホルンのようなもの)を演奏する役僧となりました。「ドゥンケン」とは僧院のなかで行っている早朝の法要がはじまるので、僧侶たちは集会殿へと集まって下さいという合図として白法螺貝やドゥンチェンを演奏しますが、その演奏を担当する役職です。

「ドゥンケン」という役僧は2名です。朝の法要がない日もありますが、法要がある日は、ドゥンケンは午前二時ころ起床しなくてはいけません。

まだ暗いなか集会殿の屋上へと行って、大体1時間くらいにわたってドゥンの吹奏をしなくてはなりません。これを1時間くらい演奏し終えると、その後午前三時くらいから午前六時くらいまでの三時間程度、『三品経』1の三十五仏への懺悔文を何度も唱え続けなくてはなりません。その後でもう一度午前六時からはもう一度ドゥンの吹奏を行なって、そろそろ会衆の僧侶たちは集会殿へと集まる時間ですよ、と告知します。

吹奏する法螺貝にも法要の種類別に二種類あり、多羅尊などの寂静尊の法要がある時には、白法螺貝を二人で吹きますが、護法尊や憤怒尊の修法の際にはドゥンチェンの吹くことになっています。ドゥンチェンの場合には音量も大きく吹くのもの少し大変ですので、特に冬の時期には、マウスピースの部分が最初は凍っていますし、少々吹いたくらいでは温かくなりませんので、気をつけて吹かないと唇を怪我してしまうこともよくあります。

「ドゥンケン」の役僧の任期は一年ごとでしたので、大変や役職ではありましたがチベットの教訓にも「恩ある両親には必ず恩返しをしなければならない」と言いますので、1年間僧院の会衆全員のため、そして両親の恩にも報いるためにも、ほぼ毎日何時間もドゥンの吹奏を行ない、三十五仏への懺悔文を何度も唱えながら福徳増大と罪障消滅を祈りながらその役職に励むこととしました。

チベットのドゥンチェン(長いホルンのようなもの)は貴人をお迎えする時に吹かれます。写真はダライ・ラマ法王猊下を広島でお迎えした時のものです。

化身ラマに認定される

「ドゥンケン」の役の任期が丁度終わる、十八歳の終わり頃、ダライ・ラマ法王猊下からリタン大僧院へと勅書が届きました。それによると私はリタン僧院の前管長猊下ゴペル・ケンスルリンポチェの再臨者(ヤンシー)であるとのことでした。僧院の僧侶たちからは、あなたがゴペル・ケンスルリンポチェの再来だったのか、と突然に言われることとなり、最初はい一体どういうことなのか、と戸惑いました。そこで一体これはどういうことなのかな、とひとりで考えていくと、それ以前に自分に起こっていたことが、このような化身認定を受ける前兆として起こったことなのではないかな、と思うようになったのです。

私にそのような認定が下る前兆としてどんなことがあったかと申しますと、実家の仏壇には前から小さな太鼓があり、この太鼓を私は小さな時からすごく好きで、大事にしていたらしいです。化身認定の手紙が来た後で実家に寄った時に両親から「あの太鼓は先代ゴペル・リンポチェがお持ちになっていたものを我が家に頂いたものですよ」とその時にはじめて聞きました。両親は私が化身認定されたことを聞くと「なるほどだからあなたはあの太鼓をすごく好きだったのね」と納得したようでした。

また両親から聞いたのですが、両親がまだ私が小さい私を先代ゴペル・リンポチェの御自坊に連れていった時、私は勝手にどんどんと奥へと進んで先代リンポチェの寝室に勝手に入ってベッドの上に寝転んだことがあったそうです。先代の御自坊を管理している侍従僧から、そこに上がるのは駄目ですよ、はやく降りなさい、と寝室からも追い出されたそうですが、両親からしてみれば、そんな行儀の悪い子供ではなかった私がそんなことをしたのには驚いたらしいです。化身認定を受けてから両親はこのエピソードでも納得して、やはり先代の化身だったからそんなことをしたんだと納得したようです。

一般的に化身ラマの認定を受けた人にも色々なケースがあります。ダライ・ラマ法王猊下のように、先代ダライ・ラマが使っていた法具や日用品などを様々に置いておいて、そのなかから先代のラマの記憶を思い出しながら選んでいって、全部言い当てるといったテストをしてから化身認定されるケースもあります。私の場合には、ダライ・ラマ法王猊下から選ばれましたが、選ばれた後から振り返って考えると、小さい時からあの小さな太鼓を気に入っていたし、両親によれば先代の寝室へと勝手に侵入しベッドで寝転んだといったこともあったのでそれがある意味で吉兆の現れであったということができるようです。

またもうひとつ不思議なことですが、この化身認定を受けるより前にドゥンケンをしている時から、実は自分はインドへと行ってもっと仏教を学びたいと考えていました。しかしドゥンケンの役職もあるし、それが終わってから自分がインドに亡命してしまったら、きっと両親もかなり寂しがるのでどうしたいいものだろうか、と考えていました。

ある時思い立って、インドに亡命した後から両親にしばらく帰ってこないという手紙を書いて両親が心配しないようにしたらどうかと思って、その時にどんな手紙だったら両親も安心してくれるか考えたことがあります。その時、自分なりに両親に言い訳をする手紙の下書きを書いてみて、

「私は仏教をもっと学ぶために無事にインドへ着いています。ダライ・ラマ法王猊下にも謁見することが出来ました。法王猊下からはあなたは先代ゴペル・リンポチェの化身であると認定されてしまいました。大変光栄なことなので、このままインドに残って修行しようと思います。ですからしばらく離れて暮らさなくてはなりません。以前のように実家に時々戻ることも出来なくなりますが、どうか心配しないでください。リンポチェとしての修行をこれからは精進したいと思います」

と両親を安心させるにはこれくらいの理由があった方がいいなと思い、下書きをしてみました。もちろんその時にはまだ本当にダライ・ラマ法王猊下から先代ゴペル・リンポチェの化身だと認定された訳ではありません。ですが両親があれほど尊敬していた先代のゴペル・ケンスルリンポチェの化身として認定されるようなことがあるなら、両親も全く心配しなくなり、喜んでくれて納得してくれると思ったのです。そんな下書きを書いていた矢先に、本当にダライ・ラマ法王猊下からリタン大僧院宛に先代ゴペル・ケンスルリンポチェの化身だと認定する手紙が届くことになったので、本当に驚きました。

こうして不思議なご縁があり、私は先代ゴペル・ケンスルリンポチェと同一人物であるとダライ・ラマ法王猊下から認定して頂きましたので、化身ラマということになったのです。

リタン大僧院はダライ・ラマ3世により開創されたカム地方のゲルク派の最大の僧院です。ダライ・ラマ7世はこの地を選んでここにダライ・ラマ7世として生まれてこられました。ゴペル・リンポチェは初代からこの僧院長を務められ、修行時代はデプン・ゴマン学堂で学ばれた方です。

(次回につづく)

  1. 宝積経優波離会第二十四所収 ↩︎

RELATED POSTS