2023.06.26
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

体と心の温度を調整する

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第32回
訳・文:野村正次郎

よきハリチャンダナによることで

苦しい高熱の症状すら癒えてゆく

大悲の味がする見解によることで

三毒の百病でさえも根治してゆく

32

私たち生物はすべて、一定の体温を維持して生きている。私たち人類であれば、一日の外気の気温差が五十度以上あってもさまざまな形で体温調整をしながら生きていくことができる。周囲の環境が熱ければ、適宜体温を低下させるために汗をかき、周囲の環境が寒ければ適宜体温を上昇させて血流をよくさせている。個々の生命体が自らの適当な体温を維持できなければ死んでしまい、体内に異常があれば私たちの身体は体温を上昇させ、体内の異常な症状を解決しようとする。身体のこうした機能がある生物は、人類以外の哺乳類のすべてがそうであり、鳥類もまた恒温動物であり、恒温動物は外気温の変化に応じて、体温を恒常的に一定に保つことができる。

これに対してトカゲや蛇や昆虫などは外気温に応じて体温が変化する変温動物であり、哺乳類や鳥類以外のすべての動物が変温動物である。魚類や水中動物の体温はそれが生息する水温とほぼ同じ体温であるが、この変温動物ですら、生存可能な適切な体温を保っていなければ、身体的な機能を維持できない。魚類などの変温動物ですら、極度の高熱を外部から与えたら死んでしまうことは、焼魚や煮魚料理を例に考えれば、容易に理解できる。

いずれにしても六道輪廻のすべての身体をもつ生物は、その身体を維持するための適切な体温というものがある。高熱を発している場合には、身体が正常に機能していないことであり、高熱が続けば、さらなる疾病を誘発し、健康を維持できなくなることは、誰しもが経験して理解できる。我々人間であれば、高熱がですぎて自分では解決できない場合には解熱薬を服薬し、体温を下げるよう努力しなければ、肉体的異常はさらに悪化していく。本偈で譬喩として使われているハリチャンダナとは、白檀の一種であり、解熱効果をもつ薬草のことであり、解熱剤を服薬することで高熱を発する体調不良を克服できる、ということを前半では説いている。

本偈ではこの身体の高熱の症状を治療するのと同じように、物事の善悪を正しく判断する思考力である智慧もまた、正常に機能していない場合には、ほかの衆生が苦しむことを望まない悲心が必要であり、他の生物を身体的にも精神的にも苦しめたくない、という気持ちがあることで、物事を正しく判断する力が正常に機能しだすのであり、それによって精神的な疾病の原因である貪欲・瞋恚・無明といった苦しみという疾病状態を寛解させ、煩悩という病を根治できるということを説いている。

これはちょうど身体の高熱の症状を下げるのに解熱剤が必要であるのと同じように、煩悩の活動が活発化し高熱状態のような苦しみや問題が起こっている場合には、慈悲という解熱剤を自ら服薬し、自己の精神状態を正常に保てるようにしなければならない、ということである。身体的な疾病の場合には、身体は物質であるので、解熱剤という別の物質を摂取することで物質的な問題を解決することができるが、煩悩と業によって発生した精神的な苦しみは、いかなる物質を摂取しようとも、解決できないのであり、精神を正しい状態で維持するための解熱剤の役割となるものは、自らの意思で、自分で自分の心のなかにつくりださなければならない。睡眠薬や向精神薬や覚醒剤などは、あくまでも物質であるから、物質である神経系の機能に対して化学的な作用を促進させるだけなのであり、薬を飲んで死を超克して解脱の境地や仏の境地を実現してくれるものではない。仏となるためには菩提心がなければならないのであり、菩提心を起こすための最大の原因となるものはあくまでも衆生の苦しみを思い、その苦しみから逃れさせるために自分も何とかしたいという悲心以外には、何もないのである。他者の幸せを自分の楽しみよりも優先させる利他の精神は、自分で培うものなのであって、誰かが私たちの心を変えて、私たちの心を癒してくれるわけで決してないのである。

たとえばインフルエンザに罹り高熱が続いているとする。そんな時には、普通の市販の風邪薬ではまったく高熱は治らないし、気分転換に仕事やジョギングをし、冷たいお風呂に入ったからといって治るわけではない。風邪の一種なのでとにかく寝ていたら治りますよ、と誰かがやさしい言葉をかけてくれたからといって、高熱で彼らが言ってくれているその優しい気持ちにも反応はできないだろう。日頃どんなに健康食品を食べていても、健康な生活を心がけていたとしても、40度近い高熱が出ている状態であれば、近所の病院にいって薬を処方してもらい、それを家で飲んでとりあえず病人は病人らしくじっと寝ているしか方法はない。どんなに美しい音楽を聴こうとも、どんなに美しい絵が壁にかかっていても、高熱が癒えることはない。高熱で寝床から起き上がれない時に、誰か優しく看病してくれる人が「あなたは調子が悪そうなので、免疫力をアップしたらいいですよ。とりあえず納豆でも食べましょう」と納豆を枕元に置いてくれても、高熱が癒えるわけではないのである。精神疾患の場合にも、これと全く同じなのである。

適切な処方薬を服薬して治療しなければ高熱は決して癒えることがないのと同じように、すべての苦しみを解決し克服するためには、無我の智見以外には、煩悩の根源にある無明を根絶させることは絶対に不可能である。そしてこの無我の見解が正常に機能するためには、完全な利他主義にもとづく慈悲心という滋養が必要なのであり、利他の精神をもたなければ、無我の見解を心に育むことができない。方便である利他の精神と、智慧である無我の見解の二つは、鳥の二つの翼のようなものであるとチャンドラキールティも説いている。翼が折れていては空を飛ぶことはできないし、自らの翼で飛び立とうせず、いつも他人の翼を当てにしていても、自分で大空の彼方まで飛んでいくことなど出来やしない。無我の智見は「中道」や「中観の見解」と呼ばれており、これはちょうど私たちが高熱や低熱の症状を回避して、適切な体温を保っていてはじめて正常な状態としてこの肉体で生きていけるのと同じように、過剰に価値を高評価する常見や過度に価値を低評価する断見の二つを回避して、精神状態を一定の状態に保てていることを意味している。私たち人間は、トカゲや魚のように周囲の温度にいつも左右されている変温動物ではなく、自分で自分の体温を管理できる恒温動物なのである。だからこそ、いつも周りの一喜一憂する環境要因に左右されるのではなく、自分の精神状態を自分でしっかりと一定状態に保っていけるのである。

日本でも有名な禅籍『無門関』にも「平常心というこれが道である」という言葉がある。本偈の文脈は、もちろん若干異なっているが、その主旨は同じものであるといってもよいだろう。体温の異常状態を回避して一定を保てるようにするのと同じように、慈悲心によって一定状態に保っていくことが「無我の智見」であり、それが解脱と一切智を実現し、仏の叡智、仏の道、と呼ばれるものがこの「中道」であり「中観」であり、それを支えるものが大悲心にこそあることを教えてくれる。

釈尊の故郷インドには美しい白檀の森がある

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