2023.07.27
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

樹蔭路をのんびり歩いてみる

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第35回
訳・文:野村正次郎

枝葉を全うした樹蔭では

どんな時でも涼しくあれる

功徳を残りなく究竟した

勝者は九生の守護者である

35

欲界・色界・無色界の三界輪廻を転生してゆく私たち生物は、以前にどこに居たのかによって合計九種類の生を受けていまここにいる。この三界の何処に生まれて何をしていようとも、生老病死そして再生の苦しみを享受して生きてゆかなければならない。この苦海を厭離して解脱と一切相智の境位を目指して暮らしているからといえ、これまで無始以来の長い時間をかけて培ってきた煩悩を克服することは簡単ではなく、たとえ仏教に出会い、真摯に如来の教法と向き合っていても、解脱の城市へと辿り着けるのは、いまよりも随分と先の未来の話となる。

未来に向かって歩み続けていると、もうそこには辿り着けないのかもしれないという不安が心に浮かんでくるのは当然であろう。生きている限り、解脱の城市へと辿り着けるために自分たちを助けてくれるものは少ないし、周囲を見渡せば、この世は魔物だらけのように見えてしまう。しかしながらそのような見方は誤っており、自分には解脱や一切智など実現不可能だろうと自信を喪失してしまうかもしれない。自分には所詮能力がないので、そんな大それたことは出来ないし、取り敢えずの生をよい状態に保つだけでも大変なので、挫折感を味わうことも当然のようにある。しかしそのような意気消沈は懈怠、すなわち精進を怠ろうとする自意識過剰によるものであると仏教は教えている。

釈尊は精進の大切さを教えるために、六年間苦行をなされており、無着菩薩のような大学者であっても弥勒を成就するために洞窟に篭って十二年修行をしたが、弥勒を成就できず諦めて外に出て死にそうな犬を見て慈悲心を起こしてはじめて弥勒を成就したといった逸話が示すように、過去に偉大なる行跡を残した偉人たちですら、その歩みは決して安易なものではない。ジェ・ツォンカパの伝記を紐解けば、中観の見解の核心にいたるために、どれほどの努力が必要であったのかは想像するだけでも大変なことであり、如来たちのような功徳をすべて全うし、過失をすべて克服したような存在ではない私たちなど、ほんの僅かの幸運と功徳しか持ち合わせていないのであり、それを出来るだけ大切に育てていかない限り、解脱と一切相智の境位を実現するのは、簡単ではないのである。

とはいえ、本偈にあるように、ほんの小さな芽であったものでも、水分と滋養を欠かすことなく、大切に育てて枝や葉を全うするのならば、その枝葉を大きく広げた樹蔭の下では、どんな時でもいつでも涼しく、暑さを凌ぐことができる。いくら煩悩に翻弄されていても、善業への精進を怠ることなく、三界九生への余儀なき転生を繰り返していても、如来が出現しない場所はないし、如来が説法をしていない場所はないからこそ、この欠陥だらけの私たちでさえ、無限の衆生の守護者となり、庇護者となり、救いとなり、無限の利他を実現できるようになる。いま私たちがそれは出来ないのは、やめるべきことをまだ止めておらず、大切に育てていかなければならない福徳と智慧の資糧をまだ大切に積集していないことだけに原因があるのであり、決して諦めるべきではないのである。

長く遠い道を歩むためには適度な休息が必要である。いまのような暑い季節には、外を歩き続けない方がよいことくらい誰もが分かるだろう。樹蔭に入れば多少涼しくなるだろうし、どこにも陰がない場所もまた存在しない。ヒマラヤの奥のザンスカールには、私たちの師匠であったゲン・ロサンがお戻りになられ、広島の山のなかでまったりと過ごしておられたあのゲン・ギャウがトンデ僧院の長老阿闍梨としてゲン・ロサンの即身拠を迎えられている。ゲン・ギャウは私たちにこんな暑い夏の日が続くときに「いまは日本のお盆ですね。日本では仏教を実践する時ですよ」といつも教えてくれていた。ダライ・ラマ法王猊下もチベットのラマたちも、仏教の実践とは洞窟に篭って瞑想することではなく、すべての衆生に役立ちたいというこの私たちの菩提心を育てていくことだといつも教えてくれてきた。日本のお盆の時期に先祖や亡くなった方々に感謝の気持ちで供養をすることは大切であるが、その感謝は、いま私たちが人類としてここにあることができ、他者に役立つことができ、この欠陥だらけの人間が少しでも他者に役立てる人間として成長することができる、というこの素晴らしい機会をいま得ていることを再認識することからはじまるのである。

釈尊ですら三阿僧祇劫もかかった仏道を歩むことは、遥か遠いところへと行こうとすることである。暑い夏はいずれ終わり、収穫の秋はやってくる。利他心をもち平常心を保つことに価値を見出す人が増えれば、この世界は自然と幸せでより平和なものへと変えていくことができる。功を焦る必要もないし、目先のことに一喜一憂した意気消沈して絶望する必要もない。楽観的にのんびりと着実にやっていけば、蝉たちが合唱できるような立派な枝葉を茂らせている樹木のような存在に私たちもなることができるのである。外の気温が暑いからといって、暑い、暑い、といって腹をたてても暑くなくはならない。苦しみばかりのこの世界に暮らしているからといって、苦しい、辛いと不平ばかりいっても苦しみは全くなくならない。すこしだけ考え方や感じ方、モチベーションを変えていくだけで大きな変化がある、というこのことを如来たちは樹蔭路で私たちを暑い太陽から守ってくれながら今日も教えてくれている。


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