2025.06.03
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

菩提樹の枝が十方へと広がるために

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第77回・最終回
訳・文:野村正次郎

このように二つの一切の取捨を

樹々の佇まいだけにより表現し

このように創作したこの物語は

曾て無かった賢者の饗宴である

101

乳海で奏でられるその歌声に

鶩たちは合唱して遊戯している

そこから起こったこのような善説が

波を打って如意樹を揺らさんことを

102

普く至極名高い宝石でできた羂索によって

インド・チベットの地の果てまでの人々を

導かれる吉祥サキャ・パンディタの善説を

道標として典拠としてここにつづってみた

103

掌尺ほどしかない鉄錠たる実際の対象へと

腕尺もある無骨な鍵たる譬喩をあててみた

このような書物もあり得るのは明白だが

賢者と愚者の誰のためかは依然は不明である

104

両流の取捨を追求したいと思う者ならば

小手先の譬喩だけを見つめるのではなく

実義を映している月輪を仰ぎ見るがよい

不思議にもそこに草食獣がいるのだろう

105

この善業というニヤグローダ樹の

種が芽吹いて次第に育ってゆき

吉兆たる枝葉は十方へ広がってゆき

一切衆生を利益するものとならんことを

106

以上、『樹の教え・二つの教えの百の枝』と名づけるこれは、様々に感じてきた印象を縁とし、僧クンチョク・テンペー・ドンメがツァ・ゲン・メンチュへと赴く道中に心に浮かぶままに書き留めたものである。

2022年の夏から連載を開始した、このグンタン・リンポチェの樹の教えも以上で完了である。最後の数偈は、このテキストは、私たちが何を選択し、何を辞めればよいのか、ということを過去の賢者たちの発想を樹というひとつの喩えだけを使って表現したものであること、執筆の際には、弁才天の加持を受けながら執筆したこと、サキャ・パンディタの『サキャ格言集』(サキャ・レクシェー)を手本としたこと、本編はあくまでもひとつの試みの一つであって、本当にここに説かれていることに取り組もうとする人は、月を指差す手先を見つめるのではなく、月そのものを見つめて欲しい旨を記している。そして釈尊が現等覚した菩提樹、すなわちニヤグローダの樹の種が、目をつけて成長して、大きな枝は十方へと広げるように、仏法が興隆しすべての衆生が利益されるように廻向祈願をして本編は終了する。

『樹の教え』はグンタン・リンポチェが執筆されてすぐに大変人気を博したものであり、自注を書くように要請を受けたが、特に注釈するほどのものではないと判断し、グンタン・リンポチェはこれに引き続き、同じような表現方法をつかって『水の教え』を本編の後に記すこととなった。本サイトの連載でも『水の教え』の方は簡単な世間的なものから仏教の奥義へと順序よく進んでいくのに対して、こちらの『樹の教え』の前半は仏教的であるが、後半は世間的にも通じる内容が多いものであり、特に注記するほどの難解な語彙などもなかったため、和訳に添えた文章もかなり饒舌で回りくどいものとなってしまった部分も多くなってしまった。

 本編の続編は『水の教え』であり、それは既に訳出し、翻訳に添えた文章も弊会の活動のひとつの記録として、会員限定で読み返すこともできるようにしてある。本編『樹の教え』の本文部分の翻訳は、多少見直して本サイトのひとつのページとして、これらの記事はしばらくしたのちには、会員限定コンテンツとしてアーカイブとしては残しておきたいと思う。

『樹の教え』の翻訳とその読解例を連載しはじめて随分と時間が経ったが、内容的には誤ったもの、不適切なもの、要領を得ていない文章は訳者にその全過失はある。それでも、このデプン・ゴマン学堂が輩出したチベット文化圏を代表する傑僧の至極の古典を日本語で紹介することができたのは、弊会の発信するコンテンツに対して浄志をお寄せくださっている施主のみなさま、読者のみなさまと関係各位のご支援の賜物である。ここに記し伏して心から感謝申し上げたい。

チベット暦2152年木巳歳4月8日
訳者識

樹の教え・二つの教えの百の枝

大宝のような心は根を張り巡らせる

壮大な二つの資糧が枝を広げている

三身の果実がよく実って垂れている

仏 この偉大なる樹を私は礼拝する

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