翌十二日には祇陀長者が供養した
慈三昧へ入り黄金色の光で遍照し
すべての衆生を親子兄弟のように
慈しみで満たされた君を礼拝する
本日チベット暦正月十二日は、長者ジェータ王子(祇陀/質多)が施主となり供養した。
釈尊はこの日にすべての衆生が幸せであり、幸せの原因を心にもてるように、という慈心の三昧へと入られていた。そして金色の光線を放散され、三千大千世界のすべてを遍く照らされた。
この光に触れた衆生たちは、苦しみの原因である貪・瞋・痴の三毒が癒え、自然に釈尊が三昧に入られているのと同じ慈心が心に起こった。衆生たちはお互いを自分の本当の父親、母親、兄弟、姉妹であるかのように親しい愛おしい存在であり、彼らが幸せであり、幸せの原因をもてるように、と心から感じられるようになり、彼らの心も慈しみで満ちたのである。
そしてそのような衆生たちに釈尊は正法を説かれた。観客たちのなかには、菩提心を起こした者、果を得た者、天人へと生まれる善根を起こした者たちが大勢現れたのである。
ジェータ王子は前日に施主となったスダッタ長者すなわち給孤独長者と共に釈尊に祇園精舎を寄進したプラセーナジット王の王子の一人である。ジェータ王子がもともと所有していた森林をスダッタ長者が釈尊とその弟子たちの安居の道場として寄進しようと声をかけて、スダッタ長者が森林の一面に金貨を敷き詰めて懇願したことから、ジェータ王子が森林を寄付し、スダッタ長者と共同で精舎を寄付したことから二人の名前をとってその場所は「祇樹・給孤独・園」と名付けられたことは、日本でも大変有名である。その場所は、釈尊が『仏説阿弥陀経』を説かれた場所であるからである。
すべての世界が如来の金光により遍照され、そこにいるすべての衆生が残りなくひとつの大家族として感じられ、彼らのすべてが自分たちの父であり、母であり、兄であり、弟であり、姉であり、妹であり、自分たちと同じく幸せを望み、苦しみを望んでいないからこそ、彼らがいつも幸せであり、常に幸せの原因である利他心に基づく善を享受して欲しい、こう願う思いは、私たちすべての者が享受しているこの世界が相互に依存し、何ひとつとして他者に依存しないものはない、という縁起の思想を元として、その思想を実現するために自己中心的な考え方を廃して非暴力と愛を実践すべきであるという仏教の根本精神のひとつである。『仏説阿弥陀経』で説かれる「極楽浄土」のという場合の「楽」の本質は、この思いにあるのであり、「浄土」という場合の「浄らか」さとは、煩悩の三毒に支配されることなく、常にお互いに利他の思いをもち続けることができる、という意味で「浄らか」であることである。
本日釈尊が起こされた神変の示現は、このようなことをいまも教えてくれているものである。




