2025.05.30
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

木の実をちゃんと育てると枝葉もできる

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第76回
訳・文:野村正次郎

樹の実をよく育てているのなら

その傍らで枝葉等も生えてくる

正法に常に精進しているのなら

そのことで世の栄華も実現する

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植物は種をきちんと育てていけば、また種を収穫することができる。果物を大切に育てていけば、また果物を私たちは得ることができる。これと同じように善業の結果として得ているこの人身という宝物を大切に育てていくのなら、また同じ人身というものを得ることができるようになる。仏教における人生のまず最初の目的とは、死後もまた別の人生を続けることにあり、それ以外のことはすべて枝葉に過ぎない。

立派な幹や枝葉や美しい花、それらはすべて果実になる前の副産物である。種から種へ、果物から果物へと育てていくのなら、それらはその過程で実現していくものである。これと同じように現世利益はすべて、利他の善業の結果の副産物として得られるものであり、いま得ているこの善業の果実を大切に育てて、利他の活動を行うことで、副産物として自己の利益を実現していくことができる。

正法に精進する、ということは善業に精進する、ということであり、善業とは、衆生が幸福を感じることができるための行動・言動・思考のことである。それには短期的な目標であと長期的な目標があり、短期的な目標には、現世利益と来世以降の後生の利益を実現するものとの二種類がある。このうち後者は「増上生」と呼ばれ、よりよい生になるもしくは、よりよい環境に生を受けることである。長期的な目標には、輪廻からの解脱を実現するものと、利他のために一切相智を実現することとの二種類があり、これらは確実に素晴らしいものであるから「決定勝」と呼ばれているものである。このうち後者の利他のために一切相智を実現することを目指すのが大乗仏教であり、それ以外はすべて自利の追求に過ぎない。

自利の追求とは、自己と自己に関わるものに対象を限定した幸福の追求である。しかるにたとえその業が善であろうとも、我執・我所執を動機とするものであるので、志も限定的なものであり、活動も限定的なものであり、それによって得られる結果も限定的なものである。これに対して無限の衆生を対象としている利他の活動は、衆生が無限であるからこそ、動機も無限の衆生に対する思いやりであるし、その活動は無限で、得られる結果も無限なものとなる。だからこそ大乗仏教を奉じるすべての者は、無限の衆生のために常に善業を行おうとするのであり、その成果も対象が無限であるからこそ、計り知れないものとなる。

本偈はこれまで続いてきた『樹の教え』の本文部分の最後の締めくくりの偈であり、この後には廻向の偈が数偈続いていく。グンタン・リンポチェが樹が育てていくためには、樹の果実を大切に育てていき、再び果実を実らせることが最も大切であることを説いているように、私たちもいま得ているこの果実を大切に育てていくことが、まずは最も大切なことであることを教えてくれている。


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