2025.05.12
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

言葉の暴力となる無意味な言動「綺語」とその七つの事例

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第72回
訳・文:野村正次郎

交差点に落ちている汚れた木の葉は

誰にでも踏みつけられるものである

意味もない支離滅裂なただの雑談は

いくら語ろうとも注目されもしない

85

為したことは僅かなのに悪しき者は

恩着せがましく耳障りに騒ぎ立てる

湿った薪は燃えても火は小さいのに

台所を満たすほど黒々と煙をあげる

86

木の中に蛇が一度でもいたのなら

後から見ると恐ろしいものである

盗みや詐欺を一度でもしたのなら

その人には常に疑惑が向けられる

87

どうでもいい無意味なことをあれこれと長く語る言動は「綺語」といって絶対的な悪業であり、言葉の暴力である。何故ならば、それはその言語表現の対象である衆生に不快感を与え、その結果は必ず苦しみのみを生み出すものであるからである。

「綺語」は十不善の罪業のひとつであり、事実に反した虚偽を語る「妄語」「虚言」、人を仲違いさせ分断させる「両舌」、粗暴な表現を故意に使用して人を傷つける「悪口」と同じく、「綺語」はよくない言動の一つである。

十不善は「性罪」といって戒律などの取り決め条項とは関わらず、絶対的倫理上の悪業であるので、こういう場合には、そういった言動をしてもよいというような例外規則はない。しかるに不妄語・不両舌・不悪口・不綺語は、不殺生・不偸盗・不邪淫などの行動に関する善業と同じように常に我々が慎んでおかなくてはならない言動である。

綺語には具体的には七つの事例があり、①戦闘・論争・競争・分断を誘発させる言論、②誤った法を流布させようとする言論、③悲しみや傷ついたことを吐露して同情を誘う言論、④笑いや他人が喜ぶことを期待して作りだした言論、⑤権力者や愚かな者や国家や地域や盗賊などが不法行為を行っていることを話題とする言論、⑥酔っ払って精神が錯乱して語っている言論、⑦邪な生活を話題として語る言論の七つが綺語の代表的な事例である。

そしてさらに重要なのは、これらは綺語であるので、これらの七つの事例は、たとえ事実に反していなくて妄語ではなく、他人に分断をもたらす両舌でもなく、悪しき語彙を使う訳ではなく悪口でもない場合であっても、絶対的に善くないことであり、それらの言動は他の衆生が聞いて理解するという意思疎通がなくてもよいものであり、綺語という悪業は、その結果、地獄・餓鬼・畜生などの三悪趣へと転生し、現世でも幸せを享受することの妨げとなり、不幸や苦しみを誘発する言動となる。

この七つの事例は無着が『瑜伽師地論』摂決択分で説いているものを、ジェ・ツォンカパ大師も継承して『道次第論』で要約して紹介するものであるが、ジェ・ツォンカパ大師は悪しき言動である妄語・両舌・悪口は綺語のひとつであるとすることが出来るという説と出来ないとする説が古来からあるが、妄語・両舌・悪口は綺語のひとつであるという説を採用すべきであると説いている。また『道次第論』では十善の実践に関しては下士道と共通する意識として、上士道を学ぶべき修行者は学ばなければならない、としているので、「不綺語」は、来世に人天に生まれることを目指す殊勝なる下士は無論のこと、自利である輪廻からの解脱のみを目指している中士も実践すべき事項であり、同時に一切衆生利益のために成仏せんとする上士も必ず実践すべき善業であるということになる。

またこれらは他の業と同様に、自分自身でそのような言動をしていない場合であろうと、他人にそのような言動をさせる、もしくは他人がそのような言動をしているのを喜ぶ場合でも、罪業は軽くはなるが罪業を積んでいることには変わらない。しかるに、こうした綺語の七つの事例をよく理解して、不綺語ということただ単に無意味で支離滅裂な話をしなければいいと短絡的に考えてしまうのは誤りであり、自分の言動だけではなく、他人の言動を面白おかしく楽しむことも悪しきことであり、大乗を志す限りにおいて、すくなくともこうした七つの事例を回避するような言動をしなくてはならないし、他人が行っている言動についてもそれによって煩悩を増大させてしまわないように用心する必要がある。

ジョウォ・アティシャが「群衆のなかでは心を省みる。一人の時には心を省みる。」と『菩薩宝鬘』で締めくるように、心のなかに怒りや憎悪や嫌悪感の象徴でもある蛇を飼っていては、他人から重んじられることもないし、信頼されることもない。菩薩たちが下士と共通している実践している言動は「不綺語」であり、さらに他の衆生たちに対しては「愛語」と呼ばれている、言葉に重みのある誰にとってもやさしい言葉づかいにほかならない。「綺語」は言葉をつかった衆生への暴力のひとつであり、すくなくとも仏教徒である限り、そのような言論を慎まなければならない。本偈はこういったことを改めて私たちに教えてくれているものであると思われる。

言葉の暴力を振る者・言葉の非暴力を実践する菩薩を対比した図

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