2025.09.19
གྲུབ་མཐའ་རིན་ཆེན་ཕྲེང་བའི་བཀའ་ཁྲིད།

断見を克服するために

『学説規定摩尼宝蔓』伝授録(2005年12月13日 午後の部より)
講伝:ダライ・ラマ法王14世テンジン・ギャツォ/編訳:野村正次郎
2005年12月12日から16日にかけて韓国の仏教徒の要請に応えられてダライ・ラマ法王はダラムサラのテクチェンチューリンにて『学説規定摩尼宝蔓』の講伝を行われました。

様々な学説を知ることの重要性

ジェ・ツォンカパ大師は『秘密真言道次第論』の冒頭で、

外教徒が現実にいるかどうかは無関係なのであって、……

これは、私たちの個人の心相続には過去世の誤った考え方の習気があるからこそ、まず様々に異なった思想や見解を知り、その上でそれらが正しいか否かを判断しなければならない、ということを説かれたものです。もちろんジェ・ツォンカパ大師がチベットで活躍された時代のチベットには外教徒は存在しませんし、外国の宗教との交流もなかったでしょう。だからこそジェ・リンポチェはこのように説かれているのです1

これに対して現在の私たちの場合にはどうでしょうか。私たちは様々異なる思想や実践法をもった人々に囲まれて暮らしています。今後将来的に私たちチベット人がチベットでの自由を取り戻し、内外のチベット人が一同に会することができる日が来たとしても、その時も、他の世界との関わりは続けてもっていなくてはならないことに変わりません。今後どのような場所にいようとも、様々な思想や学説に囲まれた状況は変わらないのです。世界はひとつの全体であり、この世界には様々な文化、宗教、学説、文化が同時に共存しています。ですから現在、過去のやり方と同じくただチベットの伝統的方法により道次第や四種翻意法(བློ་ལྡོག་རྣམ་བཞི།)2などを用いて人々を導いていくのは時代遅れと言っても過言ではありません。韓国人のみなさま方の場合で同様で、昔ながらの方法で何の分析も検証もしないまま、ただ教義を当然のものとして信仰するのは時代遅れなのです3

このように内外の様々な学説への理解することは極めて重要です。内外の様々な学説といっても、単に古代インドからの特定の宗教のみに限らず、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教やゾロアスター教、これら様々な考えを知っておかねばなりません。それだけではなく西欧哲学などの人文学、近代科学(modern science)などを知ることも大切です。それらの考え方のすべてを網羅的に知ることは勿論困難なことなのですが、少なくとも基本的考え方や中心となる教義だけでも知っておく必要がありますし、それは大変意義深く有益なことなのです。

また教えには「公的な一般論」(བསྟན་པ་སྤྱི་བཙན།)「私的な個別論」(གང་ཟག་སྒོས་བཙན།)という二種の形式があります。ゴロク・ニェンゴン・スンラプパ(སྙན་དགོན་སྤྲུལ་སྐུ་མདོ་སྔགས་ཆོས་ཀྱི་རྒྱ་མཚོ། ༡༩༠༣་-༡༩༥༧)はこの「公的な一般論・私的な個別論」について説かれていますが、これは極めて重要な示唆です。

「内外の異なる学説のそのすべてを知らねばならない」という場合には、公的な一般論としての論であり、一般的にすべての人が同じように学ぶべきである、ということになります。一方、特定の私人である個人がある事項について、それほど多角的に理解せずともよく、特定の観点で思索を深め実践してゆくことができる場合もあります。こちらは、特定の教義を特定の観点で確定して、実践してゆけばよく「私的な個別論」と言えるものです。

いまここで、この世界で仏教は一般的にこういった教義であると概説する場合、出来る限り多くの内外の学説を多角的に理解し、その上でその内容を対比して関連させて説明することが大切であり、内外の学説の多角的に理解し実践しなくてはならないということは、公的な一般論であると言うことができます。ナーランダー僧院の諸学者が仏法護持される際に用いられた手法はこの公的な一般論ということになるのです。

ローカーヤタ学派

ローカーヤタ学派は、

〔本文〕前世から今世へ転生することは有り得ない。前世など誰にも見えないからである。暫定的に成立している身体から心が暫定的に発生する。ちょうど灯明の火が暫定的に成立している時、そこから発する光も暫定的に成立しているのと同様である。

前世が無いことをこのように論証します。前世が無ければ、来世も必然的に無いことになります。来世が無いことの論証を次のように述べています。

〔本文〕また今生から来世へ転生することも無い。身と心は実体としては同体であるので、身体が滅す時には精神も滅すからである。岩が滅す時には岩の上の文様も滅すのと同様である。

ローカーヤタ学派には様々なものがあり、クンケン・ラマの『学説大論』でもローカーヤタ学派のさまざまな派があることが述べられています4

過去のローカーヤタ学派は、前世・来世を無いと断定して論じるものがいます。一方、現代人のように前世・来世は無いとははっきりとは断定せずに、前世・来世の存在を疑義のある未解決の課題として留保する人々がいますし、いまはこれが大部分であると言うことができるでしょう。たとえば現代の科学者たちの大部分はこの後者に帰属させることができます。

科学者たちが極めて公正で客観的であるのは事実です。少なくとも私自身の知り合いの科学者を例としてもまた彼らとの交流の経験から申し上げても、科学者は基本的に何らかのことを証明しようとすることを主たる関心事としているように思われます。つまり何か存在しているものを立証することを主題としているということです。私たちが眼で見ることができ、計測することができるもの、ある人がしっかりとした方法をもちいて、客観的に観測して確認できるもの、そして同一の方法で検証した時に必ず同じ事項を知覚できるもの、これを存在しているもの、と述べているのです。

しかしながらそのような計測が不可能な対象の存在については疑義がある未知の課題として留保したままとしなくてはなりません。彼らがそれらを非存在であると断定する訳でもありません。科学者は、公明正大に客観性を重視し、偏見で決めつけないようにしているのであり、未確認の事項については「広く開かれた問い」(open question)として如何様にでもなり得る状態のまま留保しています。彼らがそのようなものを「存在している」と承諾する訳でもありませんし、「存在しない」と決めつけて断定することもありません。あくまでもそのような問題についてはどのような選択肢もあり得るということなのです。これが科学者たちの良い点であるといっていいと思います。彼らはなるべく公明正大であろうとし、客観性を担保して、充分に納得できる根拠がある場合のみ承諾し、それが未確認である限り、あくまでも疑義のある課題・問題として留保しておくのです。

たとえばたとえば共産主義者は「宗教とは毒である」と主張し、宗教を取分け問題のあるものとして意図的に否定的に取り扱います。そのことによって前世・来世が、宗教で説かれるものであり、宗教は毒で良くないと見做していることから「前世・来世の存在は宗教が説く」という「宗教が説く」ということを論拠とし「前世・来世は存在しない」と論じるかも知れません。しかしながら、これは間違っていますし、科学的見地からは疑義があるとしなくてはならないのです。

科学者は、あるもの存在を認めるためには、それが観測して発見し得るものであり、充分納得のいくことであり、一人の人間が発見しただけではなく、別の第三者がその科学的な命題を、同一条件と同一方法で再現実験を行った時に、常に同一の観測結果が得られる場合にのみ、そのもの存在を立証できるとしています。これは仏教徒の場合にも同じです。もしも科学者が、前世・来世が非存在であると正しい認識によって確定することが出来たのならば、仏教徒もそれを受け入れて承認することになります。何故ならば、仏教徒は「正しい認識(量)によって認識し得るもの」ということを「有」の定義であるとしているからです。

聖典の言葉によって存在の有無を確定することは出来ません。たとえばある仏典のなかには「五蘊は荷物である。その荷物を背負っているものが人である」という表現があり、「荷物」として五蘊を表現し、「荷物を背負って運ぶ人」と、荷物とその運び手である人とを別のものとして説くものもあります。この経文の場合のように仏教徒は「一切法は空であり無我である」と説いているのにも関わらず、五蘊とは別体である我が有るものとして表現しているものもあります。このようなことからも仏教では聖典の言葉だけにあるというだけでは判断のための正しい論拠となりませんし、論理によって確定しなくてはならないのです。だからこそ「前世・来世は存在しない」ということを立証するのに充分な正しい認識や論理がもし発見されれば、仏教徒もその通りに承諾することになるのです。このことは私がいつも述べている私自身の持論です。

ある時ドイツのジャーナリストが私に「科学者たちは、前世・来世が無いと断定しています」と言ってきたことがあります。彼にとっては科学者がそのようなことを確定したと思いたかったのかも知れませんが、私は彼に対して「そんな話は科学者からも聞いたことはありません。科学はもっと客観的なものではないでしょうか」と答えました。科学では前世・来世を未だ立証可能となっていないということに過ぎないのです。しかしこれは同時に「前世・来世は無い」という立証済みであるということではないのであり、ただ未発見・未確定であるということに過ぎないのです。「未発見・未確定である」ということと「非存在であると確定した」ということは全然違うことなのです。

仏教徒の場合には、あるものが存在しているのかどうかという命題について、論理的な検証を行って正しいものとなるのならば、その命題を認めなくてはなりません。

たとえば十不善の一つとして「邪見」というものが有りますが、損減見の危険性を警鐘するためにも邪見のひとつとして特に損減見を挙げて説いています。

一般的には「邪見」には「増益見」(常見)・「損減見」(断見)の二つがありますが、これは何を表現したものなのか、といえば、あるものが存在している場合に、それが存在しているというだけに留まらず、それ以上のものであると分別知によって増益している場合には、それを「増益見」と呼ぶのです。これに対してあるものが存在している場合に、その存在を断絶させて、有るのにも関わらず無い、とすることを「損減見」(断見)と呼んでいます。これは実際には存在し続けているものを損なって過小評価するので「損減」と呼ばれる誤った考え方なのです。ですから「不邪見」という場合にはこの増益見・損減見の両方ともを回避しなくてはならない、ということになります。これは言い換えるのならば、現実の事実をその通りに受け入れなければならない、ということに他なりません。

このようなことから現実の事実が如何にあるのか、ということについて、論理的な論証を用いたり、意識による分析を補佐するための工業製品たる計測器を用いたり、あるいは多様な物質と化学反応させるといった方法で、当該の事実を確定することが出来たのならば、科学者だけではなく、仏教徒もまたこれを承認するということになります。

(続く)

  1. 『真言道次第論』:「以上説明した通り、自分の教主などの三帰依処は解脱を求めるものにとっての帰依処であって、これとは異なる教主などは、帰依処では決してない、という確信をもてなければ、自分の帰依処に一心に堅固な意思は起こり得ない。この意思が起こるのも両方の教義の問題点と利点とを論理的に実感していることに依存している。しかるに外教徒が現実にいるかどうかは無関係なのであって、知性の高い人々が殊勝なる帰依の意思を起こさんとする限り、前述のようにしなくてはならい。それ故に、量七部論などの正理の論書というものは、自己の教主である仏、その教説である聖言教と証解教、それらを正しく実践する者に対して単なる言葉ではない甚大なる崇敬の念を起こすための最勝方便であると知りなさい。」 ↩︎
  2. カギュ派の修行法である。今生から翻意する、輪廻から翻意する、寂静の楽から翻意する、所取能取から翻意するといった四種の意識的な反抗のことを表している。サキャ派の場合にこれを「四種類の執着を離れること」と表現し、ゲルク派の場合には出離心・発心・正見の三つとして数え「道の三本の基礎」と表現する。 ↩︎
  3. ダライ・ラマ法王猊下は、現代仏教徒は、「鈍根の随信行者」(śraddhānusārin)ではなく、先に論理的に理解してから信仰を起こすという「鋭根の随法行者」(dharmānusārin)であるべきことを繰り返し強調されている。 ↩︎
  4. クンケン・ジャムヤンシェーパの『学説大論』では、ローカヤータ学派はブリハスパティやローカチャクシュなどを教祖として、断見論者、虚無論者、バルハスパティ派、チャールヴァーカ派、自性論者、本性論者などといった様々なものがいたことを『般若灯論』や『中観荘厳論』などを典拠として論じている。順世外道にも、神の存在を認めるものと認めないものとがいることは、ダライ・ラマ法王猊下もここの箇所以外で説明されている。 ↩︎

この訳文について

本和訳は、ダライ・ラマ第14世テンジン・ギャツォ法王猊下が2005年12月12日から16日にかけて韓国の仏教徒の要請に応えられてダライ・ラマ法王はダラムサラのテクチェンチューリンにて『学説規定摩尼宝蔓』の講伝を行われ際の記録動画・録音資料を元に、弊会の定例法話会でクンケン・ジクメワンポの『学説規定摩尼宝蔓』を学んでおられる方々を対象として、前世・来世の存在証明に関わる部分を解説する際の資料として抜粋して翻訳したものです。

詳しい内容の解説については、ゴペル・リンポチェが2025年9月21日(日)の午後からもっと分かりやすく説明されてくださる予定ですので、ご興味がある方はぜひご参加くださいますようお願い申し上げます。

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