2025.11.01
གྲུབ་མཐའ་རིན་ཆེན་ཕྲེང་བའི་བཀའ་ཁྲིད།

意識が物質に依存するという説の問題点

『学説規定摩尼宝蔓』伝授録(2005年12月13日 午後の部より)
講伝:ダライ・ラマ法王14世テンジン・ギャツォ/編訳:野村正次郎

分別知・無分別知/量・非量

彼らはこのように言っていますが、私たちはまず意識自体には、分別知・無分別知という二つの分類が有ると言います。これは私たちの経験上明らかです。無分別知である感官知と意識という分別知というものはありますよね。この二つの違いについては脳の事例では正しく説明することは出来ません。

そしてまた最も重要なこととして、量・非量というような正しい知と誤った知というのはありますよね。 私たちには論拠を有する正しい認識(量)と混乱して発生する誤った認識(非量)との二つがあります。これもまた脳の事例では説明が出来ません。ここで混乱しているという迷乱知は帰謬派のようなもののことではありません。それ以下の学説として後で説明するような何らかの誤った認識というのは存在していなくてはなりません。いまのところ科学者がこの正しい知と誤った知について脳と関連させて納得のいく説明をしているものは聞いたことがありません。

このようなことから私は最近科学者の方々に会う時には、この正しい知と誤っている知や、分別知・無分別知の違いが何故起きるのか、もっと研究する必要があると呼びかけています。分別知・無分別知の違いや正しい知と誤った知との違いは、客体を規定する場合でも、内的な経験の状態などを確定するために非常に重要な要素となります。この違いは確実に存在していますし、作用をなしているのですし、実際の効果をもたらしているものであるのは確かですが、脳や神経だけによってそれらを完全に説明することはいまのところ難しいということになります。ある瞬間に誤った知であったしても、次にその知が正しい知へと変化することは実際にありますよね。この二つの知は同じものを対象としていながら、相反する知が起こっているものなのです。

たとえば感官知に赤く光っているものを見えていて、それが火なのかどうか分からないのに、実際にはただ赤い光が光っているだけで火ではないのにも関わらず、それを火であると認識が起こりますが、その場合には誤った感官知が起こっていることになります。この時、脳に対しては赤く光っているものが視認されており、それが脳神経の現象としても発生しています。しかしながらこの状態で別のある人が、それは火ではありません、電球の光ですと言うとします。その人は信頼に足りる人であり、事実に反することを述べる人ではないとします。その場合にはその人の言葉に基づいて、そうではない、ということが分かるようになります。(Track 10)この場合は、その前の瞬間までは誤った認識です。事実が分かった後には正しい認識ということになります。しかしながらこうした現象を単なる脳と神経だけに依存して説明するのは困難であるということになるでしょう。彼らは赤く光っているものを見ている視覚現象以外には、それが正しい認識なのか誤った認識なのかを説明することは難しいと言えるのです。このようなことから脳と神経だけで、意識の規定をすべて説明するというのは難しいのです。

意識と脳神経の関係

また、修行によって意識のみを働かせて、身体の動きや運動は全く行わないまま、意識だけによって神経を変化させることが出来ます。この時変化させられる脳や神経と、それを変化させている意識との二つが異なるものであると言うことができるでしょう。もちろん意識が神経系に依存していることは確かではあります。しかしながら意識を鍛錬させることが原因となり、神経の側を変化させ影響を与えることが出来ます。この場合には、依存するもの・依存されるものという関係があると言えます。そしてこの場合には、依存している意識は、ただ脳にのみ依存している、ということは恐らく困難であると思われます。脳神経だけに基づいて意識のすべての規定を説明しようとするのは、極めて困難であると言ってよいでしょう。

このようなことから先ほどご紹介しましたドイツの神経内科の学者に、個別的なすべての対象を認識している脳神経の部位が個々に別途存在しているのは確かであっても、たとえば脳の一部に損傷がある場合には、他の部位にその機能を移転していくのです。これはある特定の対象を認識する意識の所依が、特定の部位に限られているものではない、ということを表しています。このことをそのドイツの神経内科の学者の説明によれば、特定の意識を司る特定の脳細胞の部位があるのは事実であるが、実際の機能は、脳神経が都度結束して相互反応し、その全体として機能している、ということになるのである。このことから、その人が説明するには、これが理由となり、脳神経全体には、全体を統合し機能させるよう命令する主体である自我(セルフ)、つまり「我」というものは存在しない、とも言うことができるようです。つまり中心的な制御者(コントローラー)・中心的な指揮官(コマンダー)がいる訳ではない、ということになるとのことです。この場合には「無我」という話になるわけです。

あくまでもその学者の話ですが、すべての意識を統合して、中心となる制御者・指揮官というのはいない、ということになるようで、脳神経は全体で個々に相互作用し、相互依存しながら機能している、と言う訳です。もちろん非常に雑然と「意識なんてものは脳神経に基づいて起こったものである」と言うかも知れませんが、深く詳しく分析すれば、その通りであると立証することも極めて困難であることになります。したがって、脳神経の現象だけで意識を論証しようとするのは難しいと言えるでしょう。

意識と意根

意識のことについては仏典、特に密教文献では様々に粗大なもの・微細なものと多種多様なものがあるとされています。たとえば粗い意識である感官知のことを、感官に基づいているものだから感官知(根知)と呼んでいます。これは感官に損傷がある場合には、それに基づいた感官知も滅した状態となります。何故ならば、その意識は増上縁である感官知に基づいて発生していることは極めて明白であるからです。これと同じように意識は意根に基づいている、とは言いますが、意識にはさらに粗大なものや微細なものと多種多様あります。この場合により粗大な意識になればなるほど、より粗大な身体的な意根への依存度が高くなりますが、より微細なものになるほど物質への依存度は低下してゆくのであり、自律性・独立性が高まっていくと言えます。ですから、前世・来世は存在しないという論証の究極的な根拠となっている「意識は脳神経から発生したものである」ということを断定して立証するのは困難だと言わざるを得ません。

前世の記憶をもつ人

また別の角度から考えれば、前世の記憶をもっている人というのは実際に存在しています。彼らは明確な記憶をもっています。そして存在するのか、存在しないのか、ということは多数決で決定することではありません。何らかのひとつの事例が存在しているのならば、それは存在するものであると言わなくてはなりません。少なくとも前世の記憶をもっているという人は若干存在しており、彼らの記憶は極めて鮮明なものです。

いまから二十年、三十年ほど前のことになりますが、インド人の二人のすごく小さな女の子で前世を鮮明に思い出すことができる子に会ったことがあります。彼女たちの語る前世の記憶は極めて鮮明なものでした。その前世の記憶が極めて鮮明であったことと、前世の両親も存命であったことから。前世での両親もその子達のことを認知することとなり、その子達には前世と今生との二組の両親がいることにもなったのです。この子たちにはインドのカーンプルという街で面会しました。またパティヤーラーでも同じような子供に会ったことがあります。これらのケースは前世の記憶は極めて鮮明でしたし、他にもこのような前世の記憶を鮮明にもった人がいる事例を調査すると少なからずあることは確かなことなのです。こういう事例についてはきちんとした納得のいく説明というのが必要となります。

もちろん偶々意図せずにそのような発言をしてそれが当てはまるということはあり得ることです。昔、神降ろしをする父親の息子がいて、その息子は父親が亡くなる前に、どうやって神降しをしているのか、聞いたらしいです。父親は「つま先立ちで立っていれば暫くすると足が震えてくる。その上で香を沢山炊いたら気絶する。その状態でいろいろ話せば結構当たるものです」と答えたらしいですよ(笑)。この話のように色々適当に言っていれば、なかには当たっているものもあるでしょう。しかしこのような話ではなく、もっと真実味が高いケースもあり、たとえばチベット人の子供の事例で、チベット出身のトゥプテン・ツェリンさんの化身だと言われる子供の場合には、驚くほどその記憶は鮮明で説得力があるものでした。このように前世の記憶をもっている人が存在しているのも確かなことなのです。

すべてが科学的に説明できる訳ではない

また最近有名なネパールの少年で、禅定したまま三ヶ月くらい全く食事を摂っていないと言われる少年もいますよね。このような事例は科学のみでは説明できないのです。この少年の場合には、前世から継続している禅定の力によっているのか、仏典でも説かれているような禅定の功徳を獲得してそのように出来ているのか、前世での高い禅定の境地の習気が覚醒して、仏教でも仏教以外の宗教でも説かれる共通の悉地を実現できているのか、詳しくは分かりませんが、そのようなことは決してあり得ないことである、とも言えないことは事実です。粗い物質の食料、すなわち段食に依存しないことは不可能なことではありません。この少年は私も写真を見ましたが、そんなに痩せ細ってもいませんしネパールの新聞報道もされていました。このような事例のように科学的にのみ説明できる、と言ってしまうのは極めて困難なのです。このように一つでも科学的に説明できないこと存在がある限り、それは存在する、ということは出来るのです。この世界が何故発生しているのか、という問題もまたそれと同じ問題であると言えます。

定例法話会のご案内

以上の内容は、ゴペル・リンポチェが10月19日(日)の定例法話会で説明なされた部分の和訳です。これに続く部分について2025年11月2日の定例法話会で一緒に考えていきます。ご興味がある方はぜひご参加くださいますようお願い申し上げます。(オンラインでzoom参加もできます)


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