2025.05.10
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

竹の実に自分の流儀を思う

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第71回
訳・文:野村正次郎

路傍に生えている樹の果実は

子供が石の雨を降らす原因となる

悪い持ち主がもっている資産など

その殆どは敵の攻撃の目標である

80

福徳が欠乏している人物には

資産があっても命取りになる

竹の葉の先に実がつくことは

それが枯れる前兆に過ぎない

81

黍を切り落とすのは砂糖のため

狐を殺しているのは毛皮のため

仲間を攻撃するのは財宝のため

君主に謀反するのは権益のため

82

先に木を測って墨打ちしておく

切った後で寸法は変えられない

何かをはじめる前に考えておく

後で悔やむのは愚かさの証である

83

上手く目的を達成できただけで

智者だと慢心する者は誰だろう

葉を閉じて臥せる樹に生命がある

そう論証するのは外道の教義である

84

本詩篇『樹の教え』はグンタン・リンポチェが綴った樹を題材にして我々がよりよい人間になり、仏の境地を目指していくための詩篇であるが、ここに訳した一連の数偈は特に細くして説明する必要もないものである。

これらは現世利益のみを目指して奮闘している愚かな私たちの醜態を淡々と綴っているものであり、過度に反応する必要もないが、ひとつひとつの内容には、私たちが自らを振り返ってみた時には、反省すべきことばかりである。仏教というのは私たち自身の心の状態を移す鏡であると言われているが、私たちはまずは自分がどのような姿をしているのか、その外見と内面を鏡に照らして確認してみなくてはわからない。現在定例法話会でゴペル・リンポチェが教えてくださっている三士の道次第の概略にしても、私たちが動物以下ではなく、きちんとした人間らしく生き、そしてよりよい人間らしく生きることを説いているものである。それと同じようにここでグンタン・リンポチェが教えてくれている駄面で愚かな人間にならないよう、私たちは日々用心する必要がある。

樹がそこに生えているように、釈尊の教えはそこにある。そこに耳を傾け、心を向けるかどうかは、ひとりひとりの自由である。しかし何にも語らずに誰にも注目されずに静かにそこに生えている樹々の生態を考えると私たちもグンタン・リンポチェのように思うこともできる。植物に生命があるかどうかを懸命に証明することに苦心しているのは仏教の流儀ではない。

この記事をいま書いている時にも万博やカジノで投資価値のある大阪の難波の一等地にすぐに売却価格が上がる投資物件の不動産を買わないかというご案内の電話をいただいた。

口からいまにも唾が飛びそうな大きな声で息をきらした営業マンの渾身のご案内はありがたいことだが、取り敢えずそんなものはまったく必要ではない。世の中にはいろんな選択肢があるが、実は殆どが不要なものばかりである。そんな不要なものよりもこのグンタン・リンポチェが私たちの反省すべき点を淡々と教えてくれているこれらの教えの方がよっぽど価値があると思われてならない。

明日もゴペル・リンポチェによる定例法話会があり、ゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパの根本聖典である『菩提道次第広論』の講義と帰謬派の思想の解説がある。少なくとも訳のわからない投資マンションよりは、はるかに価値があり実にありがたいことである。

竹の実がつくとその竹は枯れてゆく
定例法話会 →
参加登録はこちらから

RELATED POSTS