2025.10.18
གྲུབ་མཐའ་རིན་ཆེན་ཕྲེང་བའི་བཀའ་ཁྲིད།

前世や来世がないと主張する人たちの考え方

『学説規定摩尼宝蔓』伝授録(2005年12月13日 午後の部より)
講伝:ダライ・ラマ法王14世テンジン・ギャツォ/編訳:野村正次郎
2005年12月12日から16日にかけて韓国の仏教徒の要請に応えられてダライ・ラマ法王はダラムサラのテクチェンチューリンにて『学説規定摩尼宝蔓』の講伝を行われました。

前回の記事では、ダライ・ラマ法王猊下は、ジェ・ツォンカパ大師の『真言道次第』に基づいて、仏教以外の学説を知ることは、過去世に私たちが誤った考えをしていたその罪障を浄化するために必要であること、そして現代社会のように世界にはさまざまな宗教や思想があるので、それらの概略を知った上で仏教との相違点を知ることは仏教徒にとっても非常に大切であること、前世や来世がないと主張するローカーヤタ学派には古代インドの人々だけではなく、現代の科学者たちをも含めることができ、科学者たちが目指している客観性とはどのようなものであるのか、ということについて述べられていました。(前回の記事はこちらから

以下は現代人の大部分がどのように前世を否定し、どのように来世の存在を否定しているのか、ということについてダライ・ラマ法王猊下が言及なさっている部分です。以下の内容については、ゴペル・リンポチェとともに2025年10月19日(日)の午後1時から開催される定例法話会にてみなさんと学んでいきたいと思います。

和訳

この本文には、

「〔本文〕前世など誰にも見えないからである。」

とありますが、前世は無いと考える大部分の人が論拠とするのは、最終的にはこれだと思います。多くの人がこのように「前世というものは本当に有るのか」という問いに対して「前世というものは誰にも見えない」さらに「私も見たことはない」というように考えています。前世を記憶している人がいる話は聞いたことがあっても「少なくとも私は前世のことなど記憶していない」と思うのです。

それでは「前世の記憶を持つ人はいないのか」というと「大体の人は前世のことなど覚えていない」だから「誰も見たことがないものである」とするのす。「それでは誰一人として前世の記憶を持つ人はいないのか」と問いかけるのならば、そうだと断定するのも容易ではありません。たとえその人が前世の記憶を持っていないからといって、すべての人間が前世を記憶していないということにはなりません。

ある人が、その人にとっては前世の記憶がない場合、その人が前世を見たことがない、感知できない、ということだけを論拠として、前世は無い、と論じるかもしれませんが、そのような説に基づくと、あなたには見えない感知できないものは、すべて存在しない、ということになります。そんなことはありませんよね。ですからこのような論証が明らかに間違いであるのは難しくはありません。

より大きな重要な問題は、ここに続く箇所です。

〔本文〕暫定的に成立している身体から心が暫定的に発生する。ちょうど灯明の火が暫定的に成立している時、そこから発する光も暫定的に成立しているのと同様である。

ここでは灯明の火と光との関係で表現していますが、火そのものを考えた方がより分かりやすいかも知れません。

火は同類の連続する先行物を必要としないものです。だからこそ、ある条件に達した時、薪の上には火が燃え上がるのであって、薪の上に熱を持った同類の連続した先行物はありません。しかし、ある特定の条件が整った時、薪の上に燃焼させると作用が可能な能力が新たに発生しています。前世を立証するためにはこのようなものを対象としている訳ではありません。いまのこの肉体は両親の受精卵に基づいて発生しているものであり、前世の身体からこれが起こっていないのは誰でも分かる事実ですから、前世を考える場合には、身体に関して検討しているのではなく、まず心に関して検討しているということになります。

心や精神がこの身体に依存して発生しているものである、と考えるのは、ちょうど科学者の考え方の基礎にあるものと思われます。彼らが精神を身体に依存し発生したものであると断定してはいないと思いますが、至極当然な前提であると考えているといってもいいです。

科学者の説明によれば、私たちの意識は、身体の全体ではなく、神経系、特に脳神経系の部位に存在するさまざまな微細な物質に依存して、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚といった五感の意識が発生すし、同時にそれらが複合的な構成を形成することで、様々な分別知が発生するとしています。それらの発生の拠り所には脳神経があり、それらとの複合作用が発生することにより、意識が形成されると考えるのである。このことによって、脳神経系に依存し様々な分別知や意識の状態が発生するので、意識や感情も脳神経の特定の部位や物質に対応し分類可能であるとも述べています。これはかなり説得力のある学説だと思います。

またある時ドイツの神経内科の研究者から話を伺ったことがあります。その説によれば、直接的に物質を認識可能にする視覚神経、音声を認識可能にする聴覚神経、匂いを認識可能にする嗅覚神経、味を認識する味覚神経、感触を認識する感覚神経、といった五感に関連するものだけではなく、慈悲などの感情を抱く神経、執着心を起こす神経、嫌悪感を起こす神経というように、神経にも様々なものがあるそうです。それらの部位に対して直接電気的刺激を与えて働かなくさせることで、様々な分別知が起こらなくすることができるようです。たとえば空腹感がそうであり、空腹感を発生させることができる神経の部位を変化させることで、空腹感を感じなくすることできますし、逆に満腹である筈なのに空腹感を感じるようにすることもできるとのことでので、これは明白な事実でしょう。ですから神経の働きと関係して、単なる身体的な感覚に留まらず、慈悲・貪欲・瞋恚・我慢などについても神経に基づいた解釈をすることは可能です。ですので、これらの神経は、心臓から流れる血流によって活性化するものですから、血液が流れており、神経が活動可能な状態である限り、それらに依存して発生する知もまた活動していると言うことができるのです。

彼らはこのような非常に詳細な説明を行なっており、インド古代のローカーヤータ学派と比較すれば遥かに精緻な解釈を行なっているのです。このように、ある時に血流が停止して、それによって脳死が起こり、脳の神経の活動が停止し、その時に意識が活動停止する、としているのです。インドの昔のローカーヤタ学派が「酒から酔いや力が起こる」としたり、「壁画は壁が存在している限りは存在しているが、壁がなくなれば壁画もなくなる」ということを事例として挙げているのと同様、身体全体あるいは身体の特定の一部位である微細な神経がもつ機能を土台として、脳が活動している限り意識があり、脳が活動していないと意識がなくなる、とするのです。これらが「前世が無い」と論証する際の最大の根拠となっているのです。彼らの論理では「前世から今生へと引き継がれる意識は存在しない、今生から来世へと引き継がれていく意識は存在しない。何故ならば意識は脳にのみ依存しているからである」であり、この脳は今生のみに限られたものである、という考えがあるのです。

定例法話会のご案内

詳しい内容の解説については、ゴペル・リンポチェが2025年10月19日(日)の午後1時からもっと分かりやすく説明される予定です。ご興味がある方はぜひご参加くださいますようお願い申し上げます。(オンラインでzoom参加もできます)


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