2025.05.04
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

資本・資産あるいは福徳・受容を運用する

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第70回
訳・文:野村正次郎

劣った人はいくら貯めても実らない

徳ある者はいくら施しても受容する

豊かな土地では剪定しようとも育つ木を

枯れた土地に植え替えて何故育つだろうか

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豊かさや貧しさは福徳が有るのか無いのかということに依存している。知性も徳もない人々がどんなに少し倹約して貯蓄していこうとも、物質的に豊かになることはない。しかしながら、徳のある人がもっている財産を如何に他者のために施そうとも、その善業が原因となって財産は増えていくものなのである。これは貧富というものが福徳の有無だけに従っていることにその理由がある。本偈は、この現象を養分や水分や豊かな場所で育っている木は、どんなに剪定しようとも、更に育っていくことができるが、その同じ木を養分や水分もない枯れた大地に植え替えたらどんな木でも枯れてしまうことに例えている。

仏教における「福徳」とは、他の衆生に楽を与える善業の実績のことであり、これは物質化し受用することが可能なものであり、会計上は貸借対照表の資産から負債を引いた額である純資産、すなわち資本に相当するものである。一方。過去の罪業は負債に相当し、苦受が起こるまで債務免除されることのない累積債務に相当する。資本を流動資産あるいは固定資産へと振替し、それを利用して活動を行い、活動の結果、損益計算表に勘定される利益(楽)もしくは損失(苦)が発生する。

善業は受容となり、その受容を運用して損益がでることは会社経営や資産運用と同じである。資本を増資すれば、自動的に受容も増加し、それによって期待できる運用益も大きなものとなる。その逆に日頃から収益を出して、資本を増加させるために善業を積んでいなければ、流動資産である受容には限りがあるので、物質的にも精神的にも貧困な状態とならざるを得ない。また通常の資産運用と同じように善業の積みたて方や運用方法が分からなければ、収益は見込めないし、運用に失敗して大幅な損失、すなわち不幸な状況を作り出してしまう可能性がある。

会計帳簿と同じように、私たちは定期的に福徳や智慧といった資糧の運用方法を見直すために、特定の時期によって締めを行い、決算して自分の経営状態を見直さなければならない。放漫経営は大幅な損失を生み出すのであり、年度締めの決算、月締めの決算、さらには今生での決算、さらに来世を含めた決算期を設定し、無始以来積集してきた累積債務である罪業が更なる債務を生み出さないように気を付ける必要がある。何かいいことがあった時にチベットの人たちは日常的に「福徳が大きかった」という表現をよく使っている。これは「運がよかった」「才能があった」としか表現できない日本人とは大きく異なっているといえるだろう。「運」や「才能」という表現は自分の力で何ともならない他責的な表現である。これに対して「福徳」という表現は、前世からの善業の実績、自業自得・自己責任でまたそれを生み出すことができる、ということを示唆しているものである。だからこそ、たとえ福徳が尽きそうになり、物事が上手くいっていなくても、毎日ほんの数分真言を唱え、施しなどの小さな努力で状況は必ず改善できるものである。

無尽蔵の資産を有する毘沙門天

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