
君が善く行じられた徳雲には
所化の妙善を養う雨水がある
深大にして妙なる雷鳴を響かせて
瑞祥尊師は雲海の王のようである
数千万の禅定を自在になされており
善説を著されて成就にも努められた
瑜伽行王にして 一切持明者の主君
瑞祥尊師は衆生の宝冠として勝れている
ジェ・ツォンカパ大師の行状のすべては、彼が過去世から積集してきた福徳の異熟であり、天高く連なる雲海の如く高貴であり、その雲は、弟子たちが解脱や一切智を目指して成長する際に摂取する養分となるような恵みの雨を蓄えている。それは甚深・広大の法輪を転じ、雷鳴のように轟く獅子吼により衆生たちの心を煩悩から解放し満たしていく。止観双運、生起次第、究竟次第といった禅定を自由自在に成就しているだけではなく、煩悩を滅尽するための数多くの善説を説き、それを実現して実践していくことにも努めていた。この二偈は、ジェ・ツォンカパの伝記そのものがもつ顕密双修の類稀なる功徳の全体をまずは俯瞰して提示している。
大乗仏教の伝統において、勝れた人物の「伝記」(ナムタル)とは、その人物が俗人よりも圧倒的に高貴な存在であること、その人物の行動・言動・考え方といった身口意の功徳がどのように勝れたものであったのかということを述べ、そのことによってある心の解放、すなわち「解脱」を実現するもののことである。「ナムタル」とは八解脱・三解脱門という場合の解脱と同じ言葉であり、便宜上「行状記」「行状」と訳しているが、本来は「解脱の軌跡」を示している。
その物語は、勝れた功徳をもつ人物が、如来の教えをどのように聴聞し、思索し、清浄なる修行に専心され、その結果、賢者と称賛されるようなどのような講釈をして、論義を行い、著述をなされたのか、三律義の戒体護持を如何に厳格に実践されたのか、儀軌などの成就によって如何なる殊勝なる境地を実現されたのか、ということを記述する。そしてその人物の持っていた賢者・成就者としての功徳により、教法と衆生に如何なる影響を与えたのか、と記述するものである。そのような記述を行うことにより、その伝記に触れる者、それに耳を傾ける者たちが、自分たちの心のなかに心からの真の信心を育ていくことが可能となるのであり、読者の信心を深め、勝れた人物と同じような素晴らしい善なる意思を育むための書物である。
しかるに一般的な俗人が、現世利益を目指して、敵対勢力をどのように駆逐させたのか、自分の味方となる勢力をどのように保護したのか、商売などの経済活動によって如何なる物質的な利益を生み出したのか、偽物の善業にみせかけたことをどのようにやったのか、ということを面白おかしく書き連らね、世間の一般の人々に不思議がらせたり奇妙に思わせたり、驚きを与えたりするなどのことをして悪業を積むための綺語を連ねたものは、高僧の伝記ではない。
所謂一般的な伝記に見られるよな人物描写のように、その高僧がどこでいつ何をしたのか、誰に会ったのか、どのような勢力と対立していたのか、高僧ではあったがその人物がどのように一般人と同じようであったのか、といった高貴な賢者を通俗の凡人であるかのように取り扱って記述するものは、高僧の伝記とは言えない。何故ならば、そのようなことを幾ら記述しても、読者や聴衆が来世で有暇具足の所依をもって生まれ、解脱や一切知へと向かうための原因には何一つならないからである。我々仏教徒は数多くの仏典に説かれている物語が、そもそも何を目指して編まれたものなのか、ということを知らなければ、その物語を正しく読み解くことは決してできないだろう。
釈尊の前世の物語である本生譚にしろ、釈尊のご誕生から涅槃までを述べる仏伝にしろ、龍樹や無着といった偉大なる菩薩の伝記にしろ、このジェ・ツォンカパ大師の伝記にしろ、すべてがそのような目的で書かれているのであり、これは「解脱の軌跡」であり、我々はその軌跡を追うことで、心安らぎ煩悩を寂滅させていくことができるのである。
またもう一つ重要なことは、これらの「解脱の軌跡」はあくまでも「実話」であり、「ノンフィクション」であり、「史実」であり、それは「歴史的事実」であるということには十分な注意が必要である。何故ならば、釈尊の伝記にしろ、諸師の伝記にしろ、それらはフィクションでないし、創作や戯曲ではないし、真実や事実を歪曲して述べたものではない。何故ならばそのようなフィクションは同じく読者や聴衆を惑わすだけであり、「解脱の軌跡」の現実に驚嘆し讃嘆して汚れた心を捨てて浄信へと向かわせるものではないからである。その伝記の作者やそれを伝承してきた者たちも、決して現実や事実を歪曲しようとして伝えてきた訳ではない。
残念ながら唯物論者や宗教を嫌悪している人々は、如来が無限の数の化身を化現し得る、菩薩が様々な姿を変えて現実に様々な場所に「事実」として現れて人々を救済する、すなわち解脱へと導く軌跡をこれまで数多くの残してきた、ということを信じるに足りる想像力や精神力をもっていない。しかしながら少なくとも大乗仏教を信奉するだけの十分な背景をもつ者であれば、般若経や華厳経や法華経に説かれている様々な逸話や物語を実話であり、史実であり、歴史的事実として受け入れることが出来なくてはならない。ジェ・ツォンカパ大師の行状についても、それは何ら変わらないものであり、煩悩濁・見濁などによって汚れ切った五濁悪世の時代に生きている我々は、そのようなものであると知力を活用して、想像力を働かせてはじめてそれらが解脱の軌跡として、意味のある、私的なメッセージとして受け取ることができる聖典のひとつなのである。それらは唯一仏壇でも仏像よりも上に置いてよい仏語の所依であり、常に供養すべき衆生の煩悩を解放する解脱の軌跡を記しているのと同時に解脱の軌跡を生み出す尊い書物なのである。
以上、現代の欧米社会や日本の一部の社会では、仏伝や高僧伝や聖者伝のもつ基本的な性格を理解していない様々な言説も存在するので、伝統的に「行状記」「伝記」(ナムタル)と呼ばれる「解脱の軌跡」が如何なるものであるべきか、ということを現在ゲルク派の共通の博士号取得のための試験の課題図書でもあるジェ・ツォンカパ大師の『大行状記』におけるギャルワンチュージェによる記述を再構成してここに記しておいた。次回から訳出するジェ・ツォンカパ大師の具体的な行状を理解するためだけではなく、釈尊や高僧や祖師の伝記を紐解くすべての人の理解の一助となれば幸いである。
兜率五供・萬灯会




