2025.12.12
༄༅། །རྗེ་་བཙུན་བླ་མ་བློ་བཟན་གྲགས་པའི་དཔལ་གྱི་གསང་བའི་རྣམ་ཐར་གསོལ་འདེབས་བཞུགས་སོ།།

称名念仏の際に必要な諸仏の姿と印相

『至尊師ロサンタクペーペルの秘密行状請願』和訳と解題(5)
ジャムヤンチュージェ・タシーパルデン著/訳・文:野村正次郎

七支行をなされる時

三十五仏を現量でご覧になり

各仏の御影と印相などを

常に如実に観じられた法主

瑞祥尊師よ 君に請願し奉らん

左右の手は説法印を結んでいる

善く座し給われる主尊弥勒が

再び十力を具して降臨なさり

勝者の偉業を成さんと授記された

瑞祥尊師よ 君に請願し奉らん

天人師である釈迦牟尼仏

薬師如来 阿弥陀如来は

会衆の大海のなか輝くのを

直に拝していた勝子法主よ

瑞祥尊師よ 君に請願し奉らん

悉地の源である至尊多羅菩薩

光明を具えた聖母仏頂尊勝

厄災を清浄する白傘蓋仏など

本尊諸尊を明瞭にされていた

瑞祥尊師よ 君に請願し奉らん

七支加行、すなわち礼拝・供養・随喜・懺悔・請転法輪・久住請願・廻向は、如何なる修行を行う場合もその準備段階として成しておかなくはならない加行であり、その詳細は『道次第広論』で詳しく説明され弊会の定例法話会でも紹介した。

『道次第広論』で説かれる七支加行は、『普賢行願讃』の冒頭部分を読誦して行うものであり、懺悔分は日本でも善く知られている「我昔所造諸悪業」の一偈と用いて行うものであり、貪瞋痴の三毒によって身口意で無始以来、自らが為してきた罪業・他人に為してもらった罪業・罪業を随喜したそのすべての過失を想起しながら後悔し陳罪し、今後はそのような悪業を行うまいと律する決意し、善業を積集しようとするが、この所依としては、眼前に生起した三世十方の微塵数の如来を想起しながら懺悔を略式で行うこととなる。

これに対して本行分としてより詳しく懺悔行う場合には、所謂『三品経』(『大寶積經・優波離會第二十四』『佛說三十五佛名禮懺文』)を唱えながら、所依としては三十五仏を観想して行うこととなる。たとえば師資相承を供養するパンチェン・ラマの『師供養儀』(ラマチューパ)を修法する場合には、儀式の途中で『師供養儀』の懺悔分の箇所で、『三品経』を挿入して読誦し、眼前に召入した師本尊の福樹会衆のなかでも三十五仏の各仏を所依として称名念仏して、懺悔を行うこととなる。

この際に三十五仏の各仏の仏名のみを経本を手がかりに「南無釋迦牟尼佛。南無金剛不壞佛。南無寶光佛。…」称えても、各仏がどのような姿をされているのか、ということが分からなければ、懺悔法そのものの所依として完全なものを修法することは非常に困難である。何故ならば、丁度街中で多くの群衆のなかで三十五人の人々の名前を呼び、その人たちに向かって何かを語りかけようとした場合に、その三十五人の人々のそれぞれの人々の姿形、持物などといった特徴を知らなければ、その三十五人の人たちに目を向けてしっかり語りかけることなど出来ないのと同じであるからである。

しかしながら、三十五仏の姿や印相などの詳細はジェ・ツォンカパ大師でも当初特定することが出来なかったと言われている。そこでジェ・ツォンカパは大蔵経のなかにその記述を見出そうとしても得られず、大変に疑問に思いつつ、ある日『三品経』を称えていたところ、忽然として三十五仏そのものが眼前の虚空へ降臨されたので、その姿と印相のすべてを完全に知ることが出来るようになった。その後、その三十五仏の姿をガンデン大僧院のヤンパチェンに仏師に描かせて、決して弟子たちをも含めて今後決して忘れないようにした。これが今日でもよく流布しているジェ・ツォンカパ流の三十五仏の元となっているものである。

本詩篇では、この時の釈尊以下三十五仏をはじめ、弥勒仏・薬師仏・阿弥陀仏・多羅尊・仏頂尊勝・白傘蓋仏などを常に現量で知覚していたことを述べており、ジェ・ツォンカパがそれらの諸仏に関する讃や祈願文を著す時にも、不明な部分がある時には、常に文殊菩薩が現れて、ひとつひとつ丁寧に指導を受けて、讃や祈願文を書かれたというのは、大変有名な逸話である。これらの讃や祈願文は今日でもゲルク派の僧院のほぼすべてで日々唱えられているものであり、チベットのみならず、モンゴル、ロシアまでその内容は広く知られており、僧侶たちはこれらの礼讃文や祈願文をまずは暗記していかなくてはならない。

釈迦牟尼仏と三十五仏の場合には、ジェ・ツォンカパ大師でも迷われた程なので仕方はないとしても、弥勒仏・薬師仏・阿弥陀仏・多羅尊・仏頂尊勝・白傘蓋仏といった諸尊はそのお姿もかなり異なっているので、日々、しっかりと仏像の力などを借りて記憶に留めておくこと、すなわち念じておくことということは極めて大切である。しかしながらそもそも如来や菩薩の身体的特徴は、すべてが三十二相八十種好という最高の特徴を完全に具足しているのは同じであるので、どの方が誰なのか大変見分けが付きにくいのも仕方ない。だからこそ手に経帙をもっておられたり、智慧の剣をもっておられたり、我々でも分かりやすい姿で現れて下さるのであり、そのような仏や菩薩たちの姿は私たちのために装った姿であるということを知っておく必要があるだろう。これはちょうど、人混みで初対面の人と会う時に「相手が親切にも赤い眼鏡をかけていきます」「白い帽子を被っていきます」「手でこんな仕草をして合図を出します」といったことを事前に教えてくれるのと同じことである。何度も会ったことがある人なら少々別の格好をしていたりしてもその人であることを特定できるように、諸仏や諸菩薩も何度も対面できているのなら、手が千本あろうと二本あろうと誤差の範囲内であり、その方が誰かを特定することもできるようになるものなのである。

もちろん仏の姿を観想するのに慣れていないうちは、瑠璃色の身体をもつ薬師如来を間違って、緑色で観想してしまう場合もあり得ることである。しかしそもそも諸仏は私たちが彼らを思うだけで、その思いを瞬間的に他心通によって察知して、こちら側に心を向けて下さる存在なのであり、たとえ我々がたとえ間違って観想しても、薬師如来は怒ってそれに応えてくれない、といったことはあり得ない。とはいえせっかく薬師如来が瑠璃色に輝く姿であると我々に分かりやすい姿で出現されることを定めとしており、他の諸仏のみならず先師たちもそれを伝えているのに、間違って白色や赤色の姿で薬師如来のことを間違って考えるのは礼を失しているし、何かをお願いしたいのなら、せめて正しく観想できた方がいいのに決まっている。普段からいつ諸仏と対面できてもよいように、こちら側も各尊格の名前、身体的特徴、姿といったことをきちんと理解して準備しておく方がいいのである。

ここの部分は、ジェ・ツォンカパ大師が常日頃にそれらの尊格と対面されていたことを説いており、それらの諸尊を思いながら、ジェ・ツォンカパ大師とそれらの尊格を一体のものとして観想して、祈願を託すことを主旨としている。

釈尊を中心とした三十五仏の仏画
詳細 →
兜率五供・萬灯会


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