2025.12.11
༄༅། །རྗེ་་བཙུན་བླ་མ་བློ་བཟན་གྲགས་པའི་དཔལ་གྱི་གསང་བའི་རྣམ་ཐར་གསོལ་འདེབས་བཞུགས་སོ།།

幼少期から出家し、生涯の本尊を師から授かる

『至尊師ロサンタクペーペルの秘密行状請願』和訳と解題(4)
ジャムヤンチュージェ・タシーパルデン著/訳・文:野村正次郎
ジョウォジェ・アティーシャ

七歳の時から主尊秘密主と

大馬車シュリーディーパンカラに

現量で拝謁されて摂取されたので

顕密の本典を教誡として思われた

瑞祥尊師よ 君に請願し奉らん

インドラニーラの如く紺碧な

美しい五つの光明の網をもつ

完全な円の中心に文殊菩薩を

現量で拝謁された至尊法主よ

瑞祥尊師よ 君に請願し奉らん

その後慧蔵至尊文殊菩薩を

思いのままに拝謁なされて

吉祥なる秘密集会怛特羅と

般若経の大典の甚深な義を

途絶えなく聴聞された勝子法主

瑞祥尊師よ 君に請願し奉らん

釈尊に水晶の念珠を献上し、法螺貝を授かったジェ・ツォンカパはチベットに降誕されるまで、十七代の生を経ているが、その過程でインドのカシミールのパンディット、マティバドラシュリーとして生を受け、五百人の弟子の師として活躍されたと伝えられている。

その後、ジョウォジェ・パルデン・アティシャ・シュリー・ディーパンカラ・シュリージュニャーナがチベットで活躍した後三百数年後、チベット暦第6ラプジュン火酉歳(1357年)、東北チベットのツォンカ(現在の青海省西寧市湟中区に位置する)に、メル家の末裔として父ルンブムゲ、母シンサアチューの六男の第四男としてご誕生なされた。このご誕生地に、後にダライ・ラマ三世ソナム・ギャツォは一五八三年にクンブム大僧院(ジェ・クンブム・ガンデン・チャンパリン/塔爾寺)を建立し、ダライ・ラマ七世ケルサン・ギャツォが最初にダライ・ラマとして迎えられた僧院としても有名である。

 ご誕生後、まだ出家するのに適した年齢に達していない三歳(以下年齢は数年で記す)の時にその地を立ち寄ったカルマパ4世ロルペードルジェ(1340-1383)から一生をかけて三宝に帰依し、五戒を遵守すると誓う在家の戒律である優婆塞戒を受戒し、優婆塞名「クンガーニンポ」を授かり、正式に仏弟子となり「彼は中央チベットへと行き第二の仏となるだろう」との授記を受けた。

 その後父と親交があったチャキュン僧院(チャキュン・テクチェン・ユンテン・ダルゲーリン)の初代の座主チュージェ・トンドゥプ・リンチェン(1301-1385)から将来弟子にするために献上して欲しいと頼まれて、父も承諾したので、トンドゥプ・リンチェンの弟子となることになった。

その後六歳の終わりには、勝楽・怖畏金剛・呼金剛・大輪金剛手・両部の大日如来等の灌頂や三昧耶戒をトンドゥプ・リンチェンから授かり、「アモーガヴァジラ」(不空金剛)という密名を授かり、正式にトンドゥプ・リンチェン金剛弟子となり師事し、曼荼羅儀軌などの暗記をはじめ、本尊瑜伽や念誦法や入我法などを何度も実践し夢のなかでも常に大輪金剛手菩薩と法脈の師となったアティシャが明瞭に現れて途絶えることがないようになった。

そのようになった後に、過去世で何度も修習してきた種姓が覚醒し、在家のままでいれば、悪しき所業などに追われ、束縛も多く、放逸の原因となること多く、寂静への道に反し、飲食や衣服や家業を維持するための経済活動などに追われていくのは耐え難く、燃え盛る炎の穴に落ちているようなものであるので、解脱を追求するために家を捨て、それらの在家の業から背を向けるべきに達した、と思うようになられ、七歳の時にトンドゥプ・リンチェンの下で正式に出家して沙弥戒を授かり、僧侶となることとなり、僧名を「ロサンタクパ」と名付けられた。

 その後、1372年、十六歳の時に中央チベットへ向けて留学に赴くまで、チャキュン僧院で学んで行くことになったが、勝楽や怖畏金剛、そして文殊菩薩の成就法などはこの少年期から積極的に学び始めたものであり、トンドゥプ・リンチェンもかつて自分が中央チベットに留学し、デワチェンに留学した時にシャルやデワチェンやナルタンで学んだように、将来ツォンカパが中央チベットへと留学する時に役立つように顕教・密教の基礎を教えていったのである。

 ドンドゥプ・リンチェンは様々な教えを若いツォンカパに授けたが、本尊として常に供養すべき諸尊を決定してツォンカパに常時供養するように指導したことは、ツォンカパの日々の精神生活にとっても極めて重要な出来事であった。ドンドゥプ・リンチェンは本尊とその功徳を説き、厄災消除のため大輪金剛手菩薩を供養し、智慧を増大させるためアラパチャナ文殊菩薩を供養し、福寿長命を実現するためにジターリ流の無量寿如来を供養し、順縁を成就するために毘沙門天を供養し、六臂大黒天を供養するように指導した。これらは怖畏金剛尊の大行者でもあったトンドゥプ・リンチェンが常時供養していた諸尊であるため、自分の弟子であるツォンカパにもそれを供養するように中央チベットに出立する前に本尊としての決定を授けたのである。ツォンカパは最初の一年間は師の決定通りに途絶えることなく毎日供養していたが、中央チベットへと行きデワチェンやツェルでの学習をしている間にそれが途切れてしまい、顕教を学んでいくのにも経済的に困窮し、災いが続き、病気にもなったので、恩師の教え通りに実践しなかったことを悔い改めて、それ以降は再び師が本尊としていたものを本尊として、入我法・親近成就法などを継続的に実践することとしたと伝えられている。

またジョウォジェ・アティシャについては小さな時から夢でお会いしていたが、後に中央チベットでアティシャ像を拝観した時に、自分が夢で見ていたのと全く同じ姿であったことに驚きを感じたとも伝えられているが、出家したばかりのツォンカパは幼い時から、金剛手菩薩、アティシャ、文殊菩薩にお会いしながら、釈尊の教えの根本である般若経の甚深見・広大行を統合した怛特羅王・吉祥秘密集会怛特羅を中心とする顕密双修の菩提道次第を志していったのである。

いまの日本で言えば、誕生して直ぐに幼稚園や保育所にいく前に在家の五戒を授かり、小学校に上がる頃には、実家を離れて出家して顕教・密教の基礎を学びながらが高校に進学する前くらいまでは地元の僧院で56歳上の老師に師事し、本尊たちとの仏縁を深めていくと同時に、将来の目標を定めていったということになる。このように早くから仏門に入らんとする者はいまも一定数存在しているので、ゲルク派の僧院では、今日でも在俗の子供たちと同じような基礎教育を学ぶための小学校・中学校が設置されている。

大輪金剛手菩薩
アラパチャナ文殊菩薩
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兜率五供・萬灯会

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