2025.05.16
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

憂いのない希望の花を咲かせる

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第74回
訳・文:野村正次郎

動かせそうにない乾いた木も

川に浸して運ぶことはできる

かたくなに敵対してくる人でも

上手く説き伏せることはできる

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太陽や月では咲くことのない無憂華も

足釧をつけた乙女が触ればすぐに咲く

善説では心に響かない凶暴な輩たちも

言い方次第で説き伏せることはできる

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人の心というのは必ず変わることができるものである。私たちがよりよい人間に変わることができるのと同じようにどんな凶暴な人でも人にやさしい愛情深い人間になることができるのであり、人は変わることができるのが、私たち最大の可能性であり、希望でもある。

人の背丈の何倍もある高く聳えて育った大木を切り落とし、そのままでは何人で抱えても運ぶことが難しそうな巨大な木材でも、川に流して運ぶか、海や湖に浸しておいて水中乾燥した後に移動させようとしたら、一人な何百キロの大木を一日で何キロもの距離を移動させることができる。これと同じようにどんなに敵対していて態度が変わりそうにもない相手であろうとも、上手く説得してお互いに戦闘を回避し、話し合いによって物事を解決することは可能である。

また日光や月光がどれだけ当たっていても一向に咲く気配のないアショーカの樹(無憂樹・阿輸迦樹)の花、すなわち無憂華でも、足釧をつけた高貴な年若い乙女が触っただけで一瞬に咲き乱れることもある。これと同じようにどんなに素晴らしい教えを説いても聞く耳を持たない凶暴な輩であろうとも、特には強く激しい言葉を発したりして、最終的には本人が困ることを示唆して警告し、決して諦めることなく根気よく説得すれば、納得の上で二度と乱暴をしないようにすることもできる。

暴力を行使しないで社会の問題を話し合いで解決する、ということは容易なことではないが、人間が人間であるためには必要なことであり、人間が暴力で同じ人間を傷つけ合うことは実に愚かなことである。相手次第によっては暴力の行使が必要である、と考えるのは実に誤った考えであり、それは話し合いで物事を解決する可能性がない、と根拠のない断定をしてしまう絶望に過ぎない。

釈尊は無憂樹の下に摩耶夫人の右脇からご誕生なさり、ネーランジャラー川のほとりの菩提樹の下で成道なさり、クシナガラの沙羅双樹の下で涅槃の相を示された。その教えはすべての衆生に対する例外のない非暴力主義である。アショーカの花はそんな釈尊が教えてくださった憂いのない希望の花なのであろう。


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