2025.08.17
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

自体抽象法の遍充関係と具体例

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第33回
訳・文:野村正次郎

有である場合、別異者・相互別異者

能遍・関係対象・依存対象のすべて、

否定基体が無い法である場合、

所遍・関係者・依存者のすべて、

有無のすべての場合、別異者でも

常住でもある所依共有者のすべて、

有である場合には、相互別異者

無である場合には、非関係者・相互非別異者、

非自体抽象法である場合、

それでないものが有る場合すべて、

これらすべては自体抽象法であると確定できる。

常住・無我などの単体のものは、

阿闍梨の言葉から理解しなさい。

前偈の部分は実体法と出来るための論理的な遍充関係とその具体例を述べていたが、ここの部分は、自体抽象法であると確定できるための論理的な遍充関係とその具体例を述べている。以前の偈にもあったように、自体抽象法とは、「甲は甲であり、かつ非甲は甲である」ものであり、非自体抽象法とは、「乙は非乙であり、かつ非乙は非乙である」である。ここでは自体抽象法(甲)がもっている遍充関係を摘示している。

 まず自体抽象法(甲)が量によって成立している有である場合、甲との別異なもの・甲と相互に別異なものは自体抽象法である。さらに(甲)が有である場合、甲の能遍・関係対象・依存対象のすべてが自体抽象法であるということになる。能遍・関係対象・依存対象の三つは同義であるからである。次に自体抽象法(甲)が否定基体をもたない法で有る場合には、所遍・関係者・依存者は自体抽象法である。たとえば事物は事物自体との関係者は事物自体との関係者であり、事物自体との非関係者もまた事物自体との関係者であるからである。さらに自体抽象法(甲)が有であろうと、無であろうと(甲)と別異なものでもあり、常住でもあるものは、所依共有者のすべては自体抽象法である。

さらに、(甲)が有である場合には、(甲)との相互別異者であり、常住でもある所依共有者である場合には自体抽象法であると確定可能であり、(甲)が無である場合、(甲)との非関係者、(甲)との相互非別異者は自体抽象法である。(甲)が非自体抽象法である場合には、非甲のすべてが有る場合には、そのすべては自体抽象法であると確定することができるのである。そして具体的にそのような確定することが出来る自体抽象法(甲)とは何か、といえ常住・無我などがそれに当たるが、それが何かは阿闍梨の先生に聞きなさい、という形で以前のものと同じように本偈では遍充関係を摘示するのに留めている。

ここの本偈のテキストに対する註釈書を書いているアグ・シェーラプ・ギャツォによるとここの部分のテキストには版本に若干問題があり、肯定形・否定形が逆になっているという指摘を行い、その具体的な遍充関係の内容を展開して説明しているが、ゴペル・リンポチェによれば、そもそもこのクンケン・ジャムヤンシェーパの論理学の本頌そのものには理解不能なものもあり、同時にここの実体法・抽象法に関する記述の部分については。チャパ・チューキセンゲが問答好きの尼僧たちの慢心を打ち砕いて混乱させるために故意に難しく作ったものである、という伝説があるらしい。現在のゴマン学堂では、この詩偈に基づいて再編された『セードゥダ』でこれらの説は、チャパ流の実体法・抽象法の規定として学ぶものであるが、自説として採用されているものではないし、『セードゥラ』ではここまで複雑な遍充関係を述べている訳ではないので、とりあえず現行の偈文の表記通りに和訳も留めておくのが無難であろうとのご助言に従い、ここでは取り敢えずの現行版本通りの逐語訳を示すに留めておきたいと思う。

そもそもチベットの僧院教育は正解を先生が教えて、生徒がそれを覚えるというようなものだけにとどまるものではなく、先生が授業中に敢えて教科書に書いてあることと趣旨の違う命題を作り、それをどうやって論破したらいいのか、生徒が何か答えるとそれを徹底的に先生がわざと間違った学説に基づいて論破するというようなことがよく行われている。これは如来の功徳は語り尽くせないということを教える時も同じであり、自分自身で意識を明晰に保ったまま一瞬たりとも散乱しないように論理的な思考を構築させるための教育である。このテキストはこういう意味です、という正解を先生が教えるだけでは、生徒は実力がつかないし、先生から敢えて間違った命題や一連の問答を授業中に与えられて、それを学友と切磋琢磨して問答をしていくことで、そのトピックスについて様々な角度から考える思考法が身に付くのである。

聴聞するテキストを暗記せず、盗み見しなければ何か考えられないようでは、いつまで経っても聞思修所成の智慧が起こることはなく、聞思修所成の智慧が起こることがない限り、解脱道を実現することは不可能である。だからこそこのような複雑な議論をしてでも思考力を高める鍛錬をしなければならず、僧侶となった限りには、俗人の子供たちと同じように先生が教えてくれることだけを覚えているのでは、将来菩提心を起こして一切衆生を解脱の境地へと引導することなど出来ないのである。ここの部分の翻訳はこれでいいとは断定できないが、あくまでもチベットの僧院の思想や文化を日本語でも紹介するということが、本サイトの目的でもあるので、本偈の詳しい意味やその具体的なものについては、「阿闍梨の言葉から理解しなさい」という通りに留めておこう。


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