2022.08.31
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

マラヤ山の白檀のように薫る私たち

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第7回
訳・文:野村正次郎

この世界の最勝なる大地には ただ

純白の栴檀が生えていることもある

百にひとつの可能性としては ただ

有暇具足の所依も排除されていない

7

この世界のなかには最勝なる山であるマラヤ山(摩羅耶山・牛頭山)という山があり、その麓には、純白色をした栴檀の樹が生えており、この栴檀のことを「牛頭栴檀」というが、その樹は根も芽も葉も茎もすべて、甘美な香りを漂わせている。この樹木の香りは、心を落ち着かせ、病を癒す効果があり、樹木のなかでも最も勝れた樹木である。

しかしこのマラヤ山産の白檀が生えている姿を殆どの人が実際には見たこともなく、ただ通常は牛頭栴檀に似た樹木の亜種である一般的な白檀だけを手にしたことがあるとか、一般的なものの香りを嗅いだことがあるだけで、牛頭栴檀は希少品種であるので、そのようなものが生息している可能性があるということだけくらいしか知識がない。

この状況と同じように、いま私たちが得ている有暇具足の所依も百にひとつの可能性というような希少価値があるのであり、このような所依を得て生まれてくることができること自体は、可能性が排除されていないというだけであり、無限の衆生たちのなかでは極めて希少価値のある状態なのである。このことを本偈は説いている。

常に永遠のような強い激痛を味わい続けてもなかなか死ねない地獄の衆生に生まれないで済んでいること、何を食べても何を飲んでも空腹感も喉の渇きも癒えることのない餓鬼に生まれないで済んでいること、常に屈んで歩かなければならず、時には神々や人間の奴隷として扱われ、同じ動物のなかまをお互いに殺し合い食べ合わなければいけない畜生道に生まれないで済んでいること、生きている時は寿命は永遠のような気がし享楽的に暮らすことはできるが、それは永遠ではなく死ぬ時には自分が如何に醜い姿に生まれていき、苦しみだけがその結末である長寿天に生まれないで済んでいること、これだけでも大変な価値があることである。

さらには、人間に生まれても仏法を聴聞できない辺境の地に生まれ、人生の意味も分からないし困った時にでも誰も正しい道を教えてくれる人がいない状態ではないこと、常に宗教弾圧を行っている勢力に生まれ、生まれながらにして武器をもって人殺しをし、立派な無害で非暴力を実践している人たちを殺さなければ生きていけない状態ではないこと、生まれつき身体・言語・精神に障碍があり、動くことも不自由であったり、話をしても誰にも通じないし、誰の話も理解できなかったり、何かを考えようとしても何も考えられなかったり、何一つ記憶を維持できないような精神障害をもっていないこと、前世・来世や因果応報や三宝を認めない誤った考えをもっておらず、真空の宇宙空間で説法が聞くこともできる、誰も仏や菩薩のことを聞いたこともないような場所に生まれていないこと、これらのことは、実に希少であり、通常はすべてこの逆の状態にある。

通常はどんな状態なのか、というと地獄・餓鬼・畜生や長寿天などに生まれてしまい、人間ではなく、何か話をしても、意味が通じることもない、ただしい教えなど何処にもないし誰もきいたことがなく、何か行動をしてもその結果は何も予測できず、三宝や三蔵など見向きもしないしないし、唯物主義が蔓延している社会に生まれている場合の方が圧倒的多数である。さらには如来たちが降臨したこともない場所なので、教えも説かれていないし、説かれていてももう既に衰退して教えを実践する人は誰もいないし、仏教というものが存在した痕跡すらなくなってしまった状態になっている。かつては釈尊の教えを聞いてその教えに励もうとしていた人がいるという話だけはあるかも知れないが誰も戒律を守る者などいないし、禅定を行い、智慧を働かせて分析して、よりよい社会やよりよい人生を実現しようとすることなど無意味であるとし、誰ひとりとして仏教を実践する者などいなくなっている。

世界中のすべての人が自分のことだけ考えており、誰も他人を愛す者などいなく、どんなに困ってつらくて道端に倒れていても誰も助けの手を差し伸べてくれる人もいなく、そのまま野垂れ死ぬしかない。何かをくれてもすべて見返りを要求され、利己主義だけが蔓延し、公共の福祉や困っている弱者に手を差し伸べることは、無駄であり、良くないことであるという誤った風潮と考えが蔓延している。このような状態では常に他人は自分に危害を加えてくるのではないかという心配が尽きない。宗教も科学も学問もすべて無意味であり、油断して力がある暴力を振ってくる者からの難を逃れることだけに集中して、常にすべてのことから逃げ出しながら生きていかなければならない。そんなことに忙しいので、すこしだけ仲良くなった家族や知人や親戚もすべて自分の敵であり、他人を好きだとか、幸せになってほしいというような慈悲や愛の感情などまやかしであるので、常に恐怖と猜疑心に追われて暮らさなければならない。

幸せを感じることなどほんの一瞬であり、たとえ人間に生まれていても、ただ死なないために生きる屍のように生きるだけであり、そのうち屍になるためだけに、日々暮らさなければならない状態が続き、たまたま人間に生まれてもそんな状態なので、すぐにまた地獄・餓鬼・畜生などの苦痛ばかりがある身体に生まれ変わるだけの暮らしをしなければならない。このような状態が普通に生きている生物の普通の状態であり、いま私たちはそんな状態ではないこと自体は大変希少な状態にあるのである。

私たちは今日も目覚めて起き上がるとここは地獄でもないし餓鬼でもないし、そのような悲惨な状態では決してない。今日もまた十分なゆとりがあり、私たちの周りにはやさしく善意に満ち溢れた人たちがちゃんといて、この生を活かしてどう生きるべきかの如来の教えもしっかりと残っている。ただこれは毎日あたりまえのようにある状態であることに慣れており、このことが希少な状況にあることを忘れているだけであり、この希少な状態に思いを巡らせば、非常に有難いことであるという幸せを実感できるし、この状態で今日という日を、明日という日を、そしてこの生を終えて死を迎えてもその先にどう生きるべきなのか、ということを考える十分な余裕がある。

百にひとつ、万にひとつとして得ている希少ないまの状態は、決して永遠ではない。そしてこのような状態があり得るということは、マラヤ山の牛頭栴檀のように他の生物や人間は見たことも聞いたこともないような希少な状態なのであり、まずは自分たちがそのような希少な生物である人間であり、さらにそのなかでも希少な状態にあることを自分たちで自覚しなければ、誰にも分からない。本偈はこのようないまの私たちの希少価値をまずは、自分たちで自覚しなければならない、というこのことを教えてくれている。

白檀の木


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