2022.08.29
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

棘や毒は不要なものである

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第6回
訳・文:野村正次郎

棘があるものや毒がある樹木など

必要ないのにこの地上には溢れている

ゆとりがなく悪趣へ生まれた者は

この大地の砂の数のように無数にいる

6

私たちはいま仏道修行をするのに相応しいゆとりのある環境に生まれている。このゆとりは八つに分類できるものであり、それを総合すると「八有暇」というが、この「八有暇」と「十具足」という仏道修行に相応しい人身を得ていることは、極めて貴重なことであり、この八有暇十具足の人身を活用して、一切衆生を利益するために、一切相智の如来の境位を求める菩提心で菩薩行を完遂し、衆生をいつの日か利益できるように日々過ごすことが、大乗仏教における人生の意味ということになる。

「八有暇」というゆとりのある状態とは、「八難」を逃れている状況であり、八難とは、非人間の四難と人間の四難とがある。

非人間の四難とは、地獄・餓鬼・畜生という三悪趣の生物に生まれている三つの場合と、人間のような脆い体をもたず、神々として快楽を享受し、永遠のような時を享楽的に過ごしている長寿天に生まれている場合との四つの境涯がある。地獄・餓鬼・畜生道に生まれた場合には、生まれながら享受しなくてはならない苦しみが多すぎて仏道修行をしようという余裕など全くない。これとは逆に長寿天に生まれている場合には、自分は死ぬということすら殆ど感じないくらい寿命がながく、欲しいものはすべて手に入れることができて何不自由ないので、無常や無我といったことなど考える余裕もないほど快楽に耽溺して暮らしているので、仏道修行はできやしない。

人間の四難とは、仏法を聴聞できない辺境の地に生まれた場合、宗教弾圧を行っている勢力に生まれた場合、生まれつき身体・言語・精神に障碍をもっている場合、前世・来世や因果応報や三宝を認めない誤った見解をもっている場合、宇宙空間や別の天体など如来が説法するために降臨したことのない場所に生まれている場合、といった四難がある。これらの場合には人間に生まれても、仏法を実践する余裕がないので、人生を無益に過ごす外に術がないということになる。

これらの八難を逃れた八有暇の境地を我々は享受しているということは『阿含経』『『華厳経』『般若経』『法華経』などの日本にも古くから伝わる経典で紹介されており、少なくとも仏道修行をして、死後来世に再びこの八難を逃れた境地に辿り着くために今生で努力をすることが、古来仏教徒の死後の最低限の目標であることには変わりはない。しかるに仏教徒である限り、如何なる宗派であろうとも、来世に犬や猫に生まれ変わりたいと願うことは間違いであるし、前世・来世などは架空のものであり、インド人やチベット人が信じているものであるとするのは、かなり誤った考えであるということになる。

本偈にあるように、本来は、棘や毒は不要であるのにも関わらず、棘が生えている植物や毒性をもった植物は沢山あるのと同じように、誤った考えや誤った実践によって、幸せになるための善業を積むのではなく、たとえ人間に生まれても、常に苦しみが多く、忙しくて目まぐるしい人間に生まれてしまうケースや、地獄・餓鬼・畜生といった悪趣に誤って生まれてしまうケースの方が圧倒的に多いのである。

八難を逃れた八有暇の人身を受けている私たちは、すべての衆生の総数のなかで圧倒的な少数派であり、それだけで大変貴重な存在である。この希少価値こそが、いまの私たちの人間の尊厳にほかならない。心を落ちつかせ、いま自分たちの身体を眺めてみれば、その価値は分かると言うが、どんな時でも、自分たちのこの身体がどんな宝石よりも美しくなめらかに輝く崇高で最高であり、わざわざ棘を生やすとか、毒を吐くといったことが決して必要ないことを忘れないようにしたい。

棘を生やすより、花を咲かせる方がよいだろう

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