有る場合その抽象体・それと同一体
相互非別異者は非自体抽象法である。
述定し得るものが有る法の場合は、
それと相互遍充するすべてのものである。
定義基体と結びついたすべての
定義対象・定義のすべてである。
有無のすべての場合において、
別異者でも事物であるもの、
および直接対立項もそれである。
述定し得るものが無いすべて、
さらに自体抽象法である場合、
それではないものが有る限り、
それらすべては非自体抽象法である。
定義などの単体のものは
阿闍梨の言葉から知りなさい。
この箇所は、前偈に続いて、非自体抽象法における遍充関係とその具体例について述べたものである。前偈の末尾と同じように「定義」などの具体的な非自体抽象法として如何なるものがあるのか、ということは明記しておらず、それらは指導してくれる善知識から学びなさい、と結んでいる。
非自体抽象法とは、以前の記事でも述べたように任意の甲が、「甲は非甲であり、かつ非甲は非甲である」であるもののことを指しており、例えば変項「定義」を事例として代入した場合には、「定義は定義ではなく、かつ非定義は非定義である」ということが出来るので、「定義は非自体抽象法である」と断定することが可能である。
ここでの遍充関係を整理しておくと、まずは変項(甲)が量により認識可能な存在者である場合には、甲の抽象体、甲との同一体、甲と相互に別異なる者は、非自体抽象法である。また変項(甲)であると同定できるものが有る法である場合には、(甲)との相互遍充者は、非自体抽象法である。同定できるものが有る、というのはたとえば「柱と壺の二つ」のように柱でもあり、壺であるものがあり得ない無いような場合ではなく、「桜と木」のように、桜でもあり、木であるものが単体で同定可能なものとして存在している事例のことである。さらに次に変項(甲)が定義であるならば、その定義対象は、非自体抽象法であり、変項(甲)が定義対象であるならば、その定義は非自体抽象法である。変項(甲)が有ろうとも無かろうとも、甲でもあり事物である所依共有者、甲との直接対立者は、非自体抽象法である。変項(甲)であると同定できるものが無い場合には、甲のすべては非自体抽象法であり、変項(甲)が自体抽象法である場合には、甲は非自体抽象法である。非甲が存在するならば、その甲は非自体抽象法である。
では、その非自体抽象法である具体的な変項(甲)にはどのようなものがあるか、といえば、定義別異者・対立者などを様々なものが沢山あり、あるもの(甲)が甲ではないという事例は、非常に多い。たとえば「百」「私」「君」もそうであり、「百は百ではない。一であるから。」「私は私ではない」「君は君ではない」という場合も同じように論理的に正しいのである。
このような論理は、インド・チベット仏教の仏教論理学を学んだ経験があれば初歩的であり、比較的理解しやすいものであるが、この思考法に慣れていなければ全く理解することが難しいことも確かである。ゲルク派の僧院ではこのような論理学を学んでいるが、こうしたものをよく知らない人のなかには、「ディグナーガやダルマキールティの論理学がチベットで独自に発展した」「僧侶たちの頭の体操のために彼らは勉強しているが、仏教を研究する上では必要ない」「そもそも論理学や因明はインド由来の論争術であるので、外明であり内明ではないので、修行は必要ない」「仏教論理学はあくまでも経量部や唯識派の学説をベースとしたものであり、中観思想や密教を学ぶ上では全く必要ない。」といった過小評価した言明は日本を含めて古今東西存在している。
しかしながら、我こそは科学的で現代社会に生きるものであり、論理的である、と自負している者であろうとも「百は一である」「私は私ではない」といった記述が論理的に可能であることを理解できないようでは「論理的」というのには程遠く、仏教を正しく理解できる希望も薄いと言わざるを得ない。何故ならば、これらは仏教における真理を理解するために決して無視できない論理であるからである。すなわち一切法無我や一切相智というものを理解するためにはこうした論理によって支えられており、釈尊が大乗経典で説かれる勝義空性・空性空性などの十六空性の字義を理解するためにも、この論理に基づいて理解しなくてはならないからである。
しかるにすべての思考において、常時注意深く、「甲は甲であり、かつ非甲は甲である」場合なのか、「甲は非甲であり、かつ非甲は非甲である」場合なのか、を考え、「真実として存在しないものは、虚偽として成立しており、真実として存在しないが真実である」といった二諦の命題を理解すること、そしてそのために「私は私ではない」「君は君ではない」「百は百ではない」といえるような非自体抽象法を理解することは、解脱と一切知を目指す仏教徒にとって極めて重要であると言える。
