2026.03.31
གྲུབ་མཐའ་རིན་ཆེན་ཕྲེང་བའི་བཀའ་ཁྲིད།

公正で客観性を担保する姿勢は、科学者にも仏教徒にも重要なことである

『学説規定摩尼宝蔓』伝授録(2005年12月14日 午前の部より)
講伝:ダライ・ラマ法王14世テンジン・ギャツォ/編訳:野村正次郎

昨日までローカーヤタ学派の学説を見てきました。仏教徒が前世の存在を論証する時には、意識が継続しているということを論じますが、彼らはこれに反して「前世は存在しない」とする学説は、「意識は身体に依存しているものであるから、身体が滅す時、意識も滅するる」としています。いまから数千年前のインドのローカーヤタ学派が説く学説はこのようなものです。

現在ではこれに代替するものとして、科学者は「意識は脳神経のみに依存して発生し、その限り脳神経が死滅すれば、その機能である意識も死滅する」と論じています。

大部分の科学者は、あくまでも科学的な観察や分析を客観的に公平に行おうとする立場を取ろうとします。しかしながら一部の科学者にはこうした姿勢を保とうとしない人たちがいるのも事実です。

たとえば私が一九七九年にロシアを訪問した時に会った何人かの科学者にもその類の方がおられました。その時私は彼らと議論を交わす機会があったのですが、「意識」についての話となり、五感に基づく感官知や意識について議論しようとしたのですが、彼らは「意識」を、キリスト教で説く英語で「ソウル」「霊魂」と呼ぶものと同じものであるとであると捉えていたのだと思います。ですから意識について議論しようと思った時には「そのような事項はは宗教上の話題である」として議論する話題としては不適切であると決めつけていましたので、最終的にそれについて議論も出来なってしまいました。しかしこのようなケースは例外であると言わなくてはなりません。

客観性と公平性

宗教上の話題を最初から議論を拒絶する人たちは確かに存在します。中国の共産主義者の科学者のなかにも「宗教的事実は科学的には存在しない」「共産主義は正しい現実である」と最初から決めつけて断定しており、その上で科学的論証を行おうとする人たちもいます。しかしこのような場合は、最初から偏った見解を持っているので、科学的で客観的で公正な姿勢とは言えません。

そして注意すべきことはこのことは私たち仏教徒にも同じことが当て嵌まるということです。もし我々仏教徒が「仏典で説かれていることはすべて真実である」という最初から判断基準を設けておき、その上でその内容の是非を論理的に立証しようとしているのなら、それは公平性を欠いてしまっているのであり、偏見に過ぎないことになってしまいます。

仏典には「公正であり、意欲があり、探究心がある」ということの重要性が説かれますが、この場合の「公正」であるというのは、完全な公平性、即ち100パーセントの客観性が要求されている、と思わなくてはなりません。

もし多少なりとも「これはやめるべきことである」「これは実践すべきことである」「これは事実である」「これは事実に反することである」と証明する以前に前提条件としての判断を設けておくのならば、そこで何かを立証しようとしても、その前提としての公平性や客観性が欠如していると言わざるを得ません。そしてそのような論証はどこまでいっても偏見に過ぎないのです。このようなものは結論が先に存在しており、その結論を肯定するために立証を行い、都合のよい様々な論拠を考察するに過ぎないからです。しかしこのような論証方法それ自体が極めて不適切なものであり、公平性を欠いた偏見に過ぎないのであって、正しい論証とは言えないものです。

公平性・客観性を担保するためには、最終的な結論については導かれる結論についてあらゆる可能性があることを想定しておかなくてはなりません。そして様々に導かれる結論の可能性を前提条件として設置することなく、終始公平や分析や検討や観測を行わなくてはなりません。結果的に事実・真実として認定可能な命題についてのみ、更に異なる別の分析法や検証法などを加えて考察を十分に行って、その利点・欠点・価値というものを評価して意味づけしなくてはならないのです。

公平で客観性のある分析というのは、その分析や考察を行おうとする時点で「これは良いことである」「これは良く無いことである」「こちらが真実である」「こちらが虚偽である」といった線引きを事前にしてはいけませんし、そのような線引きを事前に行なっている限り、それは公平性を欠いており、客観性を失っていると言わざる得ないのです。

このようなことが背景にあるからこそ、仏典では「公正であり、意欲があり、探究心がある」ということを重視しているのです。ジェ・ツォンカパ大師が

偏見の闇に囚われて覆われてはいない

善悪を判断する意識の力をもった人々

と〔『菩提道次第広論』の冒頭で〕説かれるように「偏見の闇に囚われている」というのは特定の命題や立場を事前に採用しており、こうである筈だろう、こうでないのは都合が悪い、と最初から根拠もなく結論を出した上で考えているので、このような手法自体に問題があり不適切だと言わざるを得ません。

したがって私たち仏教徒が科学者たちと対話する時でも「仏教の立場では、こうである」といった言い方で発言すべきではありません。それは最初から「仏教は正しい」としており、その正しさを証明するために分析しているだけですので、議論以前に完全に誤った立場を採用しているのであり、そのような態度を維持していては、そもそも対話にもならないのです。

もちろん私たちが「仏教ではどのように考えられてきたのか」と問われれば「仏教ではこう考えてきた」と発言することは出来ます。私も前世・来世の存在についての詳細を聞かれる時にはなるべく「その話題はあくまでも前世・来世の存在を認める人々の関心事であり、それ以外の人々の関心事ではありません」と答えるようにしています。こうした姿勢は極めて大切だと思います。

中国の共産主義者の科学者には最初から「共産主義が正しい」ということを認めたいという意志をもっている場合もあります。こうした場合は、どんなに何かについて論じても、そもそも科学的な議論とは言えません。何故ならば、科学的態度としての公平性を失っており、客観性を担保した意識を失っているからです。そしてこのような間違いは他人の議論の問題点を指摘するだけに留まらず、私たちが自分たち自身の問題でもあるとも考えなくてはなりません。「私たちは正しい」と考えて、その上で科学によってそれを肯定しようと様々にどんなことを分析しても、この姿勢自体が誤った態度であると言わざるを得ません。科学的問題に限らず、一般的に論証を行おうとする時、同様な事例が確認でき、反対の事例が確認できないことだけを前提として、その上で、いくらそれに追加する命題を論証しようとしても、公平で客観的な意識を失ってしまっている。としか言えないのです。

(続く)


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