2023.06.20
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

森のなかで腐らずに静かに花を咲かせる

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第30回
訳・文:野村正次郎

清浄なる禅定に依ることで

神通等の徳は起こってくる

茎が小さくとも腐らなければ

その先で花を咲かせ乱れ舞う

30

心を善法へと向かわせ続けることが出来る、ということは、その心が強いことや特別であることと同じこととなる。禅定の修習に精進することによって、精神は鍛錬され、感覚は研ぎ澄まされていく。この禅定の修習により研ぎ澄まされた精神状態には、四つの段階があり、これを仏教では初禅・二禅・三禅・四禅と細かく分けており、この四禅によって獲得できる心の特殊状態を、五眼や六神通という言葉で説明している。

肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼という五眼や神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通といった六神通は如来たちが持っている特殊な精神的な能力であり、そのひとつひとつのものが如何なるものなのか、は以前ジェ・ツォンカパの『弥勒悲讃』を読んでいた時に、『善説金蔓』やクンケンジャムヤンシェーパの『波羅蜜考究』を要約しておいたので、その記事を参照して頂ければありがたい。本偈では、これらの禅定の功徳と呼ばれるものが、清浄なる禅定によってどのように生じていくのか、ということを小さな植物がただ美しい花を先端に咲かせる光景に喩えている。

たとえば山のなかにひっそりと生えている植物は、背丈も低くて、茎が短くても、それが腐ってしまわない限り、美しい花をその先端に咲かせていく。その花は、決して誰かに褒められるために咲くわけでもないし、山のなかにある無数の他の植物と競い合って、自分の方が他の花よりも美しい花を咲かそうとして花を咲かしているわけではない。植物の品評会のようなものが山のなかではあるわけでもないし、山のなかに人間の欲望がひしめく世界で有名で、一張羅だけで満足せず、さまざまな肩書きを纏った評論家といわれる偉そうな人がやってきて、つべこべ言われるために美しい花を咲かせるわけでもない。美しい花を咲かせると何か大それた報酬をもらえて、枯れなくなるために花を咲かせる訳でもない。ただ自らのその息吹きが絶えるその日までを全うし、今回の植物としての寿命を終えるその日が来るまでに、花を咲かせ、何処からともなく、蜜蜂たちがやってきて、花弁から蜜を好きなだけ吸って帰っていき、実を結び、その実を地面に落として、枯れていくだけであるが、ただ美しい花を咲かせるのである。その美しさは、誰かに何かをされることで成立する、他者の評価に依存するものではないのであり、その自己充足的な生の結実であることこそにある。

私たちもそんなちっぽけな植物と同じように、誰か他の人の役に立ちたいと思い続け、誰か他の人の役にたつために、自らを奮いたたせ、生命の限りを全うして、小さな花を咲かせていかなければならない。毒性物質で汚染された水分を吸収すれば、小さな植物もすぐに枯れてしまうように、煩悩の毒水ばかり飲んで暮らしていけば、私たちも腐ってしまうだろう。毒水ばかりを飲んでしまった時には、清らかな水を飲んで解毒していかなければならないように、煩悩にばかり振り回されている時には、清浄品と呼ばれる釈尊が説かれた心を清らかにする水を常に飲んでいかなければならない。

私たちを腐らせてしまう張本人は私たち自身なのであり、私たちは誰かに褒められるため、何か報酬を得るため、この世に生きただけでは満足せず、後世に自分の存在感を残したいために、ここで花を咲かせようとしていては、いつまでたっても私たちは腐っていくだけなのである。生まれてきたときには誰かが出生届をだし、死んでしまうと誰かが死亡届をだしてくれるだけであり、どこかに記録を残そうとしても、たとえば隕石が衝突すれば地球上の記録はすべて消えてしまうだけである。善業を積むことも、何か煩悩に支配されていて行っていては、本当の善業を積むことができるわけではなく、それは少しずつ私たちを蝕んでいく毒水を飲んでいることと全く変わりはない。

ただひとつ言えることは、いまここに私たちは如意宝珠よりも貴重で価値のある、人身というこの得難いをものを得て、仏法というこの出逢い難い素晴らしいものに出会っている。誰か立派な一張羅を纏った評論家や権力者に評価してもらわなくても、そんな小さく儚い存在の私たちのことを、過去・現在・未来の三世の如来たちは常に誰よりもしっかりと見守ってくれているのであり、私たちがどんな風に苦しいと思い、どんなことで舞い上がっているのか、その一喜一憂、一挙手一投足を常に見守り続けているのが、如来や菩薩の存在なのである。彼らの眼差しは常に私たちに降り注ぎ、私たちの心がどのような動きをしているのか、そのすべてを如来たちは、記憶に留めていてくれていて、狭隘な人間世界のある時代に限定された人工知能や記録媒体や歴史の教科書といったものに、私たちの存在が記録されているわけではないけれども、如来たちの関心と記憶という決して消えることのない永遠の記憶媒体に、常に私たちの存在とその生への態度は、最大の関心事として刻み続けられている。

私たちには訪れるべき時がやって来る。もうここでは私たちにはどうもしようがない時がやってくる。しかしながら私たちの記憶に刻んできた素敵な思い出と同じように、私たちも他の人たちに何か素敵な思い出になればいい、そんな小さな望みだけを頼りに、みんなに別れを告げなければいけない。しかしここでいま何をやり続けるのか、そのことを決して見捨てることなく見守ってくれている如来や菩薩たちの存在を感じて、どうこの生で花を咲かせていくのか、この生を大事に生き、最期の瞬間まで小さな花を咲かせようとし続けることができる。本偈は、そんなちっぽけな私たちの美しい物語の作り手は、私たち自身であること、そして私たちが腐ってしまわない限り、森のなかにひっそりと咲く紫陽花のように美しく、そしてやさしい花を咲かせることができることを教えてくれている。


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