信解を行じて垢を浄めてゆく
過去 現在 未来に出現する
此岸の菩薩衆のなか私はいる
黄金の大地の中心の須弥山で
眼 神通 聞法を積み重ねてゆく
功徳はすべて 品位高く聳えている
稚拙な破壊のすべてを超克してゆく
援軍を頼らない孤高の勇者とならん
私たちが菩薩として生きる決意をしても、真実を現観し聖者となるまでは、無我の真実を現観することもできないし、苦しみの原因である煩悩を断じることもできない。どんな苦難に遭遇しようとも、如来が示した真実から目を背けることなく、そこに涅槃寂静という救済があることへの揺るぎない確信が必要となる。この不動の確信をもって生きる菩薩たちのことが「信解を行じている菩薩たち」と呼ばれる者たちであり、そんな精神状態が継続している状態を「信解行地」と呼ぶ。この揺るぎない確信を心の灯火に、聞思修の智慧を発展させ、資糧道・加行道を歩み、真実を現観する見道位を得て彼岸に達するまでは、私たちは「凡夫」であり、壊れゆく不安定な「世間」に生きている。
私たちが菩薩となれた後に住んでいる「世間」はいま私たちが住んでいるこの世間と同じものである。ここには様々な問題が山積みであり、不条理なことや、道徳にも納得いかないことや、悲劇や困難も山のようにある。たとえ菩薩になってこの世間にいる此岸の菩薩衆たちに私たちは囲まれており、「如来の子供たち」「勝子」という立派な名前を戴いて、この世界のなかで最も尊い存在となって、須弥山の中心に私たちはいるような状態にはなるが、だからといって発心してすぐに仏になれた訳では無い。いま私たちが住んでいる世間と全く変わらず、この世間は問題だらけであり、私たちが無限の過去世から積んで生きた悪業の結果をとして、悲劇や苦難ばかりに直面する。
しかし、如来が私たちの罪業を洗い流してくれる訳でもないし、如来たちが私たちの煩悩を取り除いて私たちが苦難や悲痛に押しつぶされないようにしてくれる訳でもない。どんなに修行を積んだからといっても、如来たちが私たちに現観の境地を授けてくれる訳でもない。私たちは、ひとりで自分が積んできた無限の過去からの罪業に向き合い、これから直面するどんな苦難をも乗り越えていくために、たったひとりで無常や無我の真実と向き合っていかなくてはならない。何故ならば、私たちの代わりに誰かが仏になってくれる訳でもないし、私たちの代わりに誰かがこの世を幸せなものへと変えてくれるわけでもないからである。私たちの菩薩行は私たちが実践しなくてはならないものであり、私たちが出会い、共に生きてきたこのすべての衆生たちの幸せは、私たちの態度にかかっている。たとえ未だ真実を現観できない段階であっても、地上の世間のなかで最も輝かしい存在である此岸の菩薩衆の一員として、私たちはひとつひとつ菩薩らしさ、如来の子孫に相応しい生き方を選択し、如来の子孫に相応しい功徳を備え、如来の品格を少しでも身につけた生き方をこの地上にも示していかなくてはならないのである。
凡夫の菩薩が信解行地の段階でどのような功徳を具足していくのか、ということについては詳しく『般若経』『法華経』で説かれるが、凡夫の菩薩は如来たちが有する肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼という五つの眼の最初の肉眼・天眼の二眼と、如来が有する神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通という六神通のうちの漏尽通以外の五神通を世間の凡夫位において獲得する。二眼や五神通は私たちと同じこの世間にいる菩薩たちが獲得する能力であり、その能力がどのようなものなのか、ということを知ることは、まずは私たちがどのような能力を身につけていくことを目指すべきなのか、ということが明確になるので、これについて少し見ていこう。
菩薩行へと自発的に向かわせる如来の五眼
如来や菩薩の有する肉眼は、裸眼で三千大千世界のすべての大小の色彩や形状よりなる物質を視認することができる能力のことであるが、如来の肉眼の視力をもつより前の段階で、菩薩の視力の発展としては、百由旬・二百由旬・三百由旬・四百由旬・五百由旬・千由旬・南瞻部洲・二州・三州・四州・一千大世界・二千大世界・三千大千世界という13段階で発展していくものであり、一由旬を 7−8km 程度とした場合には、菩薩はまずは最低でも大体 700kmから 800km 先の物質を視認することができるということになる。
通常私たちのように自分たちの都合のいいものだけしか見なくていい場合には、そのような視力は必要ないが、菩薩や如来たちは、一切衆生が如何なる状態なのか、ということを常に視覚的にも凝視続けなければならないので、一切衆生に対する慈悲の力により、通常の生物のもつ視力よりもはるかに強力な視力をもてるようになってゆくのである。
現代の視力の計算でいえば、5m の距離で 1.45mm の切れ目が判別できるのを視力1とするので、凡夫の菩薩は視力が1400-1600 程度から始まるということになる。アフリカのタンザニアには、視力が 11 程度の人がいることも確認されており、眼球に対する手術によって通常の私たちでも視力を6 程度まで補強することができるというが、衆生のためを思い転生を繰り返していくことで、通常の私たちの数百倍以上の視力をもてるようになる、ということがこの菩薩の肉眼の力というものが教えていることである。
『法華経』法師功徳品第十九では菩薩の功徳として、視力以外にも、聴力などの眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六根についてそれぞれ「八百眼功徳・千二百耳功徳・八百鼻功徳・千二百舌功徳・八百身功徳・千二百意功徳」というものが説かれており、生まれつき裸眼で三千大千世界の山林河海はもちろんのこと、阿鼻地獄から有頂天に至るまでの三千大千世界のすべての衆生を見つめて、その衆生のもつ業の因縁とその果報である苦しみなどをすべて知ることができるようになる、と説かれている。私たちがよく親しんでいる千手千眼の観音菩薩は、そのような視力の肉眼を千眼も具足している、ということであり、如来や菩薩の力は不可思議であるというのは、そのような規模の驚異的な視力を保有されている、というのが大乗経典の一般的な如来観であり、菩薩として一人前になるためには、最低でも私たちは現在の視力の数百倍以上の肉眼視力をもてるように感官を研ぎ澄ませてゆかなければならないのであり、このような肉眼は資糧道より仏位にいたるまで存在する菩薩の功徳の六根清浄の功徳のひとつである。
如来の五眼のうち肉眼は以上のようなものであるが、第二の天眼は、資糧道上品もしくは加行道位より獲得される凡夫位の菩薩のもつ功徳のひとつであり、天眼とは、神々がもっている特殊な視力にもとづいて、欲界・色界・無色界の衆生の死・転生・再生のプロセスを直観できる能力のことを指している。この天眼は、声聞・独覚・菩薩の三乗の有学位において獲得されるものであるが、神々が死の直前に自分が死んでどこに転生し、どのような身体で再生するのか、ということを直接的なイメージとして見ることができるように、菩薩として自分がどのように死んでゆき、どこへ転生し、どのような生を次に受けることができるのか、ということを直観的な経験として知ることができるようになるだけではなく、すべての衆生がどのようにいつ死んでゆき、業の力によってどこへ転生し、どのような生を受けてどのような苦難にふたたび陥っていくのか、ということを具体的にわかるようになるのが、この天眼を得るということであり、この天眼を得るために真実を現観した聖者位が必要ではないので、天眼は過去世において無我の三昧修習を繰り返したことによって、凡夫の境位においても得ている者がいるということになる。
これに対して止観双運の禅定にもとづいて対象化するすべてのものの無我を直観できようになる慧眼、止観双運の禅定にもとづいて凡夫・聖者の死から再生のプロセスのすべてを直観できるようになる法眼、如実・如量の一切法をすべて現観できる仏眼という、慧眼・法眼・仏眼の三眼は、無我を直証した聖者位以降に獲得されるものであるので、凡夫位においては、五眼のうちの前二眼のみが得られるので、菩薩行を行わんとするものは、感官を研ぎ澄ましまずは肉眼の発展を試み、その次に天眼を獲得してゆくことで、一切衆生の苦しみを直接見て、確認し、その事実に対する認識を深めていくということになる。
またこの二眼以外には、如来のもつ六神通のうちの漏尽通以外の、神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通という五神通を凡夫位にいる菩薩は獲得していくが、神通とは、禅定を維持できていることに基づいて、通常の感官が対象化できる領域を超えて、直接知覚することで理解できる知のことを示しており、第一静慮・第二静慮・第三静慮・第四静慮の根本定や近分定などの禅定に依拠して生じるが、無色界の衆生の精神的な土台からは生じない特殊な精神の能力である。
菩薩行を加速化する如来の六神通
神足通とは、精神的な土台となる静慮に基づいて、さまざまな多くの幻を化現可能な止観双運道や禅定と智慧とを統合した意識のことであり、この精神は物質世界に介入する能力を有し、大地を動かしたり、空中を飛行したり、上半身から水を放出し、下半身から火を放出したり、梵天世界を訪れたりすることができる。こうした特殊な精神の能力は、静慮や無色定などの禅定修習の力によって生じる場合・神々のように生まれつきその能力をもっている場合、空中飛行のための真言や呪文などによって生じる場合、薬品の服用によって生じる場合、中有の衆生のように業によって生じる場合というその獲得には五つの場合がある。
天耳通とは、通常の人間のもつ聴覚を超越し、世界中のすべての極めて微かな音から、大きく響き渡っている大きな音声までの音声を聴取能力のことである。このような聴覚は通常は人間にはないものであり、清浄な耳根をもつ神々がもつ能力であり、人間世界のすべての音だけではなく、色界の神々たちの音まで聞こえてくるような聴覚のことである。
他心通とは、他の衆生がどのようなことを経験し、それに対してどのような感情や思考をもっているのか、ということを経験でき、その感情や思考を再現した追体験ができる能力のことである。この能力は、まずは他者が一体どのようなものを見て、どのようなものを聞き、どのように感じているのか、ということを繰り返し考え、自分自身の知で他者の経験や思考を知ろうとすることによって培われていくものであり、まずは通常の他者の経験や知覚を共体験できるようになることから、その経験や知覚によって生じてくる感情や思考のすべてを理解できるようになるのである。
宿命通とは、自分や他者が無限の過去世を追想する能力のことであり、特定の前世の一世のみ、二世から一万世までの過去世の記憶を辿ることができるようになる。毘婆沙師のなかには、自分が経験していない、過去に自分の心には記憶として刻まれていないことまでも追想することも可能になる、という学説を唱えるものもいるが、過去世のある瞬間だけという短い時の記憶を想起できる能力から、数日、数ヶ月、数年といった時間的に継続していた経験まで、宿命通の能力に従い、辿ることのできる記憶の量の大小には違いがでてくる。
天眼通とは、禅定によって得られる神々と同じような視認能力であり、この能力は禅定を修習したことによって得られる修所成の止観双運の慧であり、神々が自らの死後の転生や中有、転生してゆく先にある衆生の住んでいる場所、身体的特徴までもが、ありのままにはっきりと視覚化できるようになることである。天眼通と五眼のひとつの天眼とは能力的には同様な特殊な視覚のことであるが、天眼通は、修所成の慧として今生でも獲得することができるもののことであるが、天眼とは、過去世に善なる禅定を行ったことにより、次の世において生まれつき備わっている視覚能力のことである、と解釈するのが妥当な学説である、とされている。
漏尽通とは漏尽通は阿羅漢以上のものが、無我を現観し、その現観によって自己の煩悩の滅尽を直観できる能力のことであり、これは阿羅漢や仏の境位に達したもののみがもつ能力であり、凡夫の境位では得ることはできない。
それ以外の五神通は、凡夫の状態から過去世に積集した禅定力によって得られるものであり、五神通を得るために必ずしも仏教の教義に基づく修行は必要ではないので、外道の瑜伽行者などでも禅定修行を積んで火を化現したりすることができるようになるし、前世で修行を積んだことによって、生まれつき空中飛行できる特殊能力をもった人間もいるのは、特に不思議なことではない。
超能力の使用目的は利他のためである
如来が有する特殊能力である神通には使用目的があり、神足通は他者を如来とその教法への信仰へと導くために使用するものである。
たとえば神通第一と名高い目連尊者は、釈尊が「嘘をつくことをやめるという善業を積んでいくことで、舌が長くなる」という広長舌相について説かれた時に、その如来の言葉が本当かどうかを弟子たちにも示すために、如来の舌をもって、虚空無辺の地まで飛んでいったが、どこまでも飛んでいっても如来の舌がそれ以上に長いので、飛ぶのに疲れて戻ってきたという逸話がある。
このような場合には、公衆の面前で神通力を見せてもよい。しかし通常は、戒体護持の沙門がこうした神通力を実際に使用するのは、僧団の風紀を乱してしまう恐れもあるので、正しく仏道修行を行う僧侶は、神通力を実際に他人のいる場所で使用することは禁止されており、してはならないことになっているし、たとえ神通力を有することが自覚できても、自分には神通力があるというようなことを他言してはならない。
釈尊も成道後に、外道の師弟を教化するために、舎衛城で外道の師たちと神通力の競争を懇願されるまで、さまざまな王たちがどんなに釈尊に神変によって外道の師たちを改心させて欲しいと懇願されても、神変の示現を断っていた逸話からも、神通力の使用には、それぞれの目的に従った使用法に従った方がよいということが分かるであろう。天耳通は、どんな微かな悲鳴のようなものでも、その言葉で表現しようとする衆生の意図を正しく理解し、自己と他者を善行へと導くために使用するものであり、他心通は、他の衆生たちが見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、それらの思いを知り、彼らの心に響く説法をすることで善へと導くために使用するものであり、利他のための色身を実現する糧である福徳資糧をひとつずつ完成させる目的で使用するのが、正しい使用法ということになる。これに対して、業果を知る宿命通・一切衆生の苦しみと悲しみにやさしい慈愛の眼差しを降り注ぐ天眼通・涅槃寂静の現観の境地である漏尽通は、正しい無我に対する知性に基づいて培われる中道によって智慧資糧をひとつずつ完成させるために使用するのが正しい使用法ということになる。
このような五眼や六神通は般若波羅蜜の修習によって凡夫位の段階から、私たちが得ることができるものであるが、衆生済度のために、菩提心を起こし菩薩勇者として生きることを決意したからには、自発的に自力でなるべく効果的に菩薩行を実践できるようにすべきであり、六波羅蜜の実践によって超越的な肉眼や天眼を得て、衆生たちに常に慈悲の眼差を降り注ぎ、神足通によって衆生たちの側に寄り添い、彼らの声に天耳通によって耳を傾け、他心通によって彼らの心に思いを寄せて、宿命通によって彼らの悲惨な運命を知ることで、さらに菩薩道を加速させ、過去・現在・未来のすべての如来の梵音を聴聞し、自己愛に根ざした、破壊的、暴力的な感情を克服し、大慈大悲と六波羅蜜という鎧を着用し、すべての苦しみをもたらす煩悩という敵の群れに、ひとり援軍を頼ることもなく、孤高に立ち向かっていく菩薩勇者たらんとすること、これが菩薩行に他ならない。私たちが大乗の仏教に関わり、大乗者とならんとするとき、どんな時に、どんな場所に生まれようとも、どんな援軍や助けがなくても、ひとりこの孤高の戦士として、すべての衆生たちのために強靭な志を貫き通すことが求められている。これが私たちが偉大なる如来の家族として求められている任務である。
私たちが戦う相手は、無限の過去から続いているこの三千大千世界の無数の衆生たちの心のなかにある自己愛から発する煩悩そのものであり、この敵軍は残虐そのものであり、敵の軍勢はありとあらゆるところに無数に存在している。菩薩として一切衆生を利益するために菩薩行を行う、ということは、この無数の残虐な軍隊にたったひとりで立ち向かうということにほかならない。私たちは決して諦めることなく、自信喪失することなく、何度でも立ち上がり、そこに苦しむ衆生がいる限り、何度も殺されても、何度も残酷な仕打ちに合おうとも、ただ無我の正義のみが煩悩を止滅させ、最終的に勝利を迎えるということへの信念を失わずに、戦い続けていかなければならないのである。そしてこの不動の信念に生きる者たちが、信解行地の菩薩の勇者ということになるのである、
本偈は、私たちが菩提心を起こした菩薩尊者がそのような不屈の孤高の勇者として、衆生済度のために必要な戦闘力を身につけてゆき、自らの知性を常に鍛錬し、洗練させて、たったひとりで母なる無限の衆生たちのために戦い抜く不退転の勇気をもてるようにと祈るものである。