2023.04.05
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

はじまりの季節に

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第24回
訳・文:野村正次郎

樹々の実は摘んでゆくと尽きてしまう

しかし如意樹の実は尽きることはない

善業の実もまた享受すれば尽きてゆく

しかし菩提心は善をさらに増加させる

24

長く凍えそうでもあった冬が終わり、穏やかな風が吹き出すと少しずつ鳥たちも動き出す。夜の時間が少しずつ短くなり、毎日の陽光が大地を暖めていく。そのうちに日本では桜が満開になり、本格的な春を告げる。人々の往来は賑やかにになり、新しい収穫へと目指している新芽が徐々に草叢にもかわいらしい芽を生やしていく。新しい季節のはじまりである。暦の上では、もうすこし早めに新年を数えていたが、もっと分かりやすい形で新しい年がはじまっている。

この新しい季節は、新しい生命のはじまりでもある。新しい生命はこれから波乱万丈な歩みを遂げて、徐々に樹々に果実をもたらすのであろう。時の歩みとともに成長していく果実がひとつできるのには、随分と長い時間がかかるものであるし、これから様々な善意の人々の手助けをかりながら、大切に育てられていくのだろう。これから先さまざまな果実として結実してゆくだろうが、その果実もまたひとつひとつ摘んでゆかれ、姿形もなくなっていくものである。樹々の実が甘い美しい果実を結んでいくように、私たち人間や生物もさまざまな美しい人生を歩んでいく。しかしこれには必ず終わりを告げなくてはならない日が来るのであり、ひとつひとつの果実の存在は摘んで行くと、姿形すら見えなくなってしまう運命にある。すべての有為は無常である、と如来たちが教えてくれているように、すべての様々な形で結晶したものも、終わりの日を告げなければならない。

私たちが感じていく幸せな日々というものもまたこれと同じである。最初は何も分からない子供であったが手探りのまま、生きていこうとし、そしてさまざまな出会いのなかで幸せを感じることができるようになる。そんなに不幸な人生というものもないだろうし、そんなに幸福な人生というものもないことは確かであるが、それなりの幸福を私たちは感じてゆくことができる。しかしこの幸福もあくまでも、不幸な状態と比較して、謂わば、ある程度の妥協によって、何となくこれを幸せである、と感じるようにしているだけであって、この幸福な感覚が永続するわけではない。できれば永遠にと思うのは、私たちの性ではあろうが、この幸福な感覚をもたらせてくれるその原因となる善業を私たちはそれほど多く蓄積してきたという訳でもないからなのである。

長い時間をかけて秋になり、樹々には数え切れないように実がなっていても、ひとつひとつの実を積んでいければ尽きていくものである。これと同じように善業の果である楽受もまた、ひとつひとつの幸せを噛み締めていくのならば、その元となるものが尽きていってしまうものである。いくら摘もうとも決して実がなくなってしまわないのは、神々たちが享受している如意樹くらいしかない。如意樹の実は決して尽きてなくなることもないし、わざわざ時間をかけて丁寧に育てなくても、いつもそこに変わらない数の実がなっている。これと同じように、すべての衆生の苦しみを解放したいと思い、その責務を担うために、仏の境地を目指そうとしている決意たる菩提心が生み出す果実は無限である。何故ならば、菩提心によって動機づけられた善業は、その善業を行った功徳のすべてがまた、一歳衆生の利益のために享受されますようにと廻向されていくからなのである。

この先私たちは消費されてなくなってしまうような幸せをつくるために生きようとするのか、あるいは永遠に失われることのない幸せの原因をつくりだすために生きようとするのか、どちらでも自分たちの自由な選択ではある。幸せの原因である善業を行うことは簡単なことではない。誰かの役にたてることは、そんなに簡単ではないし、見返りを望んでいては本当の意味での利他ということにはならないことも私たちは知っている。とはいえ、今日という日を、自分だけのために生きようとするよりは、自分たちとさまざまな関わりがあり、その存在が稀有であると思える、自分以外の他人のために生きようとすることの方が、よい選択であることだけは確かであろう。利他を動機とする菩提心がこの世に満ちていくことは、私たち自身の将来のためにもなるのも確かである。有限の果実を生み出すことだけを目指して、その場しのぎに生きていくのか、あるいは遠い未来のために無限の果実を生み出すことだけを目指して生きていくのか、これもまた私たち個人の自由ではあるが、一切衆生済度を掲げる大乗仏教というものを耳にしたことがある限り、私たちはこの無限の果実を生み出す菩提心を基として生きていく方が、その選択がもたらす未来は明るいのではないだろうか。

本偈でグンタンリンポチェが説いているのは、そんな二つの選択肢の比較である。通常の果実や善業は、その結果を享受すれば、有限であり尽きていくものである。これに対して神々の大地に生えている如意樹や、語り尽くせないような功徳をもつ菩提心は、その結果が無限である。神々の大地に生えている如意樹のことや菩提心のことを知らないのならば、普通のありきたりの樹の実や普通のありきたりの幸せを望み、それを育てるためだけに生きることで満足するしかない。しかしこの世にはいくら収穫しても決して果実がなくならない如意樹や、いくらその幸せを享受しても、無限大に幸せが増えていくような菩提心というものも確実に存在している。

稀有なる存在を眼にして、それを見なかったことにして生きるのも自由ではある。しかし信じられないほど素晴らしい無限の果実を生み出す如意樹や菩提心を見なかったことにしてやり過ごしてしまう訳にもいかないし、それが気になって仕方がないことも事実である。私たちが絶望してしまうのには、まだ早すぎる。私たちのこの季節はまだはじまったばかりである。無限の過去から無明の闇に悶えて苦しんできて、いま漸く長い冬を終え、新しい季節を迎えたばかりである。この新しい季節は、今生での生で終わるわけではなく、これから三阿僧祇劫という長い年月をかけて、すべての生物たちのために仏となることを目指していくことのはじまりの季節である。このはじまりの季節には、美しい満開の桜の花の下で、心にも明るい希望を抱く方が似合っている。


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