2023.03.06
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

閃光を放つ光源となれるのか

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第23回
訳・文:野村正次郎

百頭の牛馬にも重すぎる荷物でも

巨大な木馬車は一台で運んでいく

声聞や独覚の何人たりとも担げない

そんな重荷が勝子の肩で輝いている

23

正月十三日に釈尊は、舎衛城にて丹田から二つの光の筋を放ち、釈尊から七尋ほど(身長の七倍程度)のところに降り注ぎ、そこに二つの蓮華から二人の如来が化現し、その二人の如来の丹田からさらに二つずつの光の筋が放たれ、同じように繰り返して大千世界の世間を如来の化現で満たされた日である。翌日の正月十四日は、施主の長者が散華をしたその花が、梵天世界にまで達するほどの宝石でできた金色で眩しい巨大な木馬車二百五十台へと変化し、その巨大な金色の木馬車のそれぞれに如来の姿を化現され、その光明で三千大千世界を満たされた日にあたる。

如来や菩薩の利他の活動は、このようにこの環境世界の多くの物質に干渉し、一般人から見るならば奇跡としか思いようがない現象を発現させ、そのことによって無限の生物たちを仏法で癒し救済するものである。彼らがこのようなことが出来るようになったのは、すべての衆生を自分自身が利益しなければいけない、という重積を担う決意をし、その上で、この決意に従って広大なる菩薩行を究竟して仏位を成就しなくてはならない、という菩提心を起こし、菩薩行を究竟し終えたことによっている。

菩提心が起こるときに重要なことは、利益すべき対象は一切衆生である、ということと、それを利益しなくてはならない存在は、私たちひとりひとりである、ということである。すなわち、特定の誰かだけ、自分と縁りのある特定の誰かだけ、自分が気に入っている誰かだけのために役立つことがしたいというのは、一切衆生のための慈悲ではない。何故ならば、相手を限ってしまっており、誰かを見捨てしまっているからである。これは慈悲ではなく、自己愛の延長線にある感情にほかならないのであり、そのような気持ちこそが他人を傷つけ、自らも輪廻の苦海に沈んでいくのである。

またたとえ、そのような間違った考えを捨てており、すべての衆生が幸せで苦しんでほしくない、という慈悲心が心に思い描けても、そうはいっても世界は魔物だらけであり、悪意に満ちており、何かよいことをしようとしても邪魔が入り、自分は無力でどうしようもないので、自分がまったく役にたちそうもないので、そんな利他の活動は、才能があり恵まれており、余裕のある菩薩たちのような素晴らしい人たちに、「えっと私たちではできませんので、よろしくお願いします」とでもお祈りを捧げておけばよい、というものではない。どんなに他人から誹謗中傷されようと、変人だと罵られようとも、私たちの目の前にいる衆生たちは、ほかならぬ私たち自身の愛する家族や親族なのであり、そんな感情を他の人も同じように持っていること自体まったく期待できないのである。困っている家族や、苦しみで踠いている家族がいれば、まずは彼らの目の前にいる私たちができる限りのことをしなくてはならないのであり、何もやらぬうちに最初から諦めている訳にはいかないのである。これは自分の愛する家族や友人が事故や病気で倒れてしまっている時には、まずは目の前にいる私たちが彼らを病院に運んでいかなければならないのであり、通りすがりの忙しそうな人たちに「どうか助けてください」と叫んだところで、「すみませんが、仕事がありますので救急車だけ呼んでおきました」とか言われて終わり、ということになるのと同じなのである。

声聞や独覚たちは、生老病死を超越した解脱の境地に辿り着くことができる。しかし彼らはあくまでも自分のためにその境地を求めてきたのであり、解脱の境地に辿り着いても、そこから衆生済度の活動をしようという気にはならない。ちょうど力持ちの馬や象がたくさんの荷物を運ぶことができても、巨大な木馬車のように多くの荷物を運ぶことができないのと同じである。彼らは最初から小さな運搬手段しか準備していないのであり、残念ながらその小さな運搬車では、いま今日は私たち衆生の全員を乗せて運んでいくことができないのである。これに対して大乗の菩薩というのは、最初から巨大な運搬車ですべての衆生を仏の境地へと連れていくことを準備し、その準備した巨大な馬車で安心して、私たちが過ごせるように仏への境地へと導いてくれる。だからこそ彼らがその重荷を軽々と運んでいく姿は美しく輝いており、菩薩たちが歩く一歩一歩は輝かしい歩みなのである。

大乗の仏伝にしても、菩薩たちの所業にしても、一般人には奇跡のようなことばかりであり、そんなことは夢物語であると考えてしまう傾向にある。これは私たちが自分ひとりのためだけのことばかり考えていきていることの証左といってもよい。一切衆生は私たちひとりひとりの大切な家族であると思える人は稀有であるし、一切衆生の幸せを望み、苦しみを望まないだけでも奇跡であろう。さらにその一切衆生の苦楽のそのすべてを担っているのが私たちひとりひとりなのである、と痛感している人も奇跡であろう。さらにはその責務を全うするために、如来の境地を目指そうと決意し、菩提心を心に起こすことができるのも奇跡の一つである。誰かひとりの人間の心に菩提心が芽生えた時に大地は揺らぎ、地震が起き、珍しい花が奇跡的に咲く、と言われているが、軽々しく一切衆生利益という重荷を肩にかついでいる菩薩たちは、その姿自体が眩しいのである。

大乗の教法とは、決して絵空事なのではなく、ただ希少な現象をみつめることができ、それを感じることができる人たちだけに感得できる神変にほかならない。釈尊の起こした奇跡にしても、その他の如来や菩薩たちの神変にしても、その正体はひとりひとりの私たちがこの状況を何とかしようというこの眩しいまでの閃光を放つ稀有なる責任感によるものである。釈尊が起こされた神変から二千五百年以上も経っているが、その閃光を私たちは今日もまた僅かでも放てるよう過ごしたいものである。奇跡を起こすことを待ち侘びている衆生たちが見ている巨大な舞台の上で、スポットライトが当たっているのは他の人ではなく、たったひとりの私たちなのである。

インドのバスはいまでも大量の人間を一度に運ぶことが出来るが限界がある。如来や菩薩は定員オーバーで過積載ということはあり得ない。これがインドの宗教である大乗仏教の「大乗」という乗り物のイメージだと考えると想像を絶すイメージである。

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