2023.01.25
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

枯れてゆく樹木が教えてくれるもの

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第19回
訳・文:野村正次郎

百年も生えていた樹でさえも

いつかは必ず枯れ斃れてゆく

有頂天へと達していようとも

抗えぬ悪趣にまた堕ちてゆく

19

しっかりと年輪を重ねて生えている大木でもその時が来れば枯れて朽ちて斃れていく。どんなに素晴らしい神々のなかでも最高の境地である有頂天の境地に生まれていることがあっても、いつかその時が来れば死んでしまい、再び決して抗うことのできない悪趣へと堕ちていってしまう。すべての生物は永遠には生きられないし、寿命が長いのかどうか、どれくらいの日数、どれくらいの年数生きているのかどうか、というのは単なる数字に過ぎない。

永遠とも思えるような長い年月を過ごすものもいるが、一瞬で生を閉じて、また再び別の生をはじめなければならない。ある時にはどんなに凍えてもその寒さから逃れることができない寒冷地獄に生まれることもあれば、油の煮えたぎった炎で焼かれて火傷だらけになってもすぐに死ぬこともできない灼熱地獄に生まれることもある。

欲望と贅を尽くした神々の身体をもって生まれてくることもあるし、色界や無色界の衆生に生まれることもある。堪え難い苦しみは抗えないし、この苦しみの連鎖はその原因である煩悩と業を断じない限り、止まることはない。これが輪廻の本質であり、苦しみという事実なのである。

仏教や宗教に対する基礎的な理解が足りない人たちは、地獄や天国というのは所詮人間が想像によって作り出したものであり、輪廻転生というのはインドやチベットなどの一部の社会で信仰されているものであって、私たちには無関係な考え方であると思っている。あるいは仏教を少し知っていても、死者たちは極楽浄土やよい生まれへと生まれ変わり、もうご先祖や家族や友達たちはきっと大丈夫だろう、という単なる甘い期待によって、不安や無知を誤魔化そうとしてしまっている。死後の世界など誰も見たことないので、信仰や思想信条の違いは社会としては保障されるべきであるが、輪廻転生とは関係なく、人間は生きている限り幸せを望んでおり、苦しみを望んでいないので、個人が幸福を実現しようとする権利は最低限保障されるべきであるということが社会的には正しい、と考えている。信仰をもたない人は何かに生まれ変わることはないし、信仰をもつ人は自らが望んでいる信仰が教えている教義通りのよい死後を過ごすだろう、というのは単なる期待であって、これは何らの根拠もない妄想や偏見に過ぎない。

私たちが輪廻であるということ、すなわち物質と精神の構成体である、ということを理解するためには、自分のこの肉体と意識とが同じものなのか、どうかということを考えることからはじめると分かりやすい。輪廻というこの苦蘊を理解するためには、物質である身体はあくまでも物質であり、この容れ物の所有者であるこの私たちは、身体だけで出来ている訳ではなく、それぞれ心をもっているということを理解しなければならない。物質はばらばらになったり組み合わさったりすることで、形を変えたり、別の名称で呼ばれる他のものへとなるのと同じように、私たちのこの精神もまた、ほかの物質的身体を得ることで、別の生物になるわけで、同じ人間でも、別の物質的身体を得て別の時にこの世に出現する時には、また別の人間になる。三界輪廻の頂点である有頂天であろうとも、無間地獄であろうとも、それはあくまでも物質的身体の違いに過ぎないのであって、私たちのいまの精神、いまの心が別の容れ物を使って暮らすための身体に過ぎない。無色界の衆生であろうとも、物質的な身体が完全に存在しない訳ではなく、粗大な物質が存在しないだけに過ぎないのであって、精神がその乗り物としている、つまり所依としている微細な物質である気体(風)は身体として存在している。そしてダルマキールティが「苦しみとは輪廻を取る構成体である」と説いているように、仏教の説く

苦しみとは、煩悩と業に支配され抗うことのできない状態のまま、この物質的な身体を自由に選択できずに物質的身体と精神とが構成体となって暮らしているこの生物としての存在そのものが聖者たちから見るのならば、苦しみそのものであるということを説いているものである。

釈尊は六道輪廻のなかで、苦しみの多い地獄への転生を望まないようにし、楽をより多く感じることができる天国への転生を希望してそれを目指しなさい、と説いているわけでは決してない。そうではなく「苦しみの事実を知りなさい。その苦しみの原因を断ちなさい。苦しみが止滅している解脱の境地を目指しなさい。それを実現するための精神を継続的にもつようにしなさい」と説いているのが四諦の基本形なのである。苦しみたくはない、というのはすべての生物の基本的な希望なのであって、「苦しみを望まないようにしなさい」と説いているのではない、ということは極めて重要である。ちょうど末期癌の患者が、死の宣告を受けた時に、それを否認し拒絶するのではなく、受容していかねばならないのと同じであるといってよい。仏教的に考えるのならば、我々はすべて全員例外なく末期の患者であり、全員が余命短い存在であると言えるだろう。

ジェ・ツォンカパは、ある書簡のなかで、苦しみの感覚を道へと昇華することができるということを述べているが、輪廻の苦しみを修行道への昇華させるためには、まずは苦しみを望まないという気持ちを退ける必要がある、ということである。これは、賢者や勇者というのは、苦しみが自分に起これば起こるほど、より一層積極的にその苦しみを受容しようという感覚を高めていく、という教えに基づくものであり、自分に苦しみの感覚が起きる時には、その苦しみの感覚を自分の精神で分析することを通じて、輪廻からの解脱を求める出離心を高めることができるし、苦しみからの解放を説いた三宝への帰依心深めていくこともできるし、いま苦しみが起きていることの原因を自省し、現在の苦しみの原因であるこれまでの罪業を懺悔し、この苦しみから離れた解脱の境地こそが常楽の境地であることを確信し、善行に励もうとし、今後自分にも他者にも同じような苦しみが起こらないため、より一層善業に励もうという意志や他者に対する慈悲心を強めていくことができるとする。このような苦しみを拒絶したり忌み嫌ったりするのではなく、苦しみの事実を正しく直視して、受容していくことで、苦しみの逆境を善行に励むための順縁へと変えていくことができる。

有頂天などの長寿天に生まれることは、前世の業の結果のひとつである。また無間地獄や灼熱地獄や寒冷地獄に生まれることもまた前世の業の結果のひとつである。止まらない飢えや渇きに悶え苦しむ畜生に生まれようとも、お互いに捕食し家畜として繋がれて暮らさなくてはならない畜生道に生まれようとも、それもまた前世の業の結果のひとつである。どんな人間に生まれようともそれは前世の業の結果のひとつであり、良いことがあろうとも悪いことがあろうとも、その本質は苦しみでしかなく、その苦しみを拒絶するのではなく、正しく認識し、それを直視して、受容することが解脱への第一歩である。この身体がどんな姿をしてようとも、心がどうあるのか、ということによって、この末期状態でもいましばらくの間は使うことができるこの身体を使って、この逆境を解脱の実現のための順縁へと私たちは変えてゆくことができる。

有頂天から無間地獄までも六道輪廻の教えとは、この世界がどのように出来ているのか、という問いに対する答えなのでない。誰しもが枯れてしまい、朽ちてゆく木のようにいまを生きている時、その流れに逆らって拒絶することはなく、これから先どうあるべきか、どのような未来をつくるべきなのか、この未来への問いかけのひとつなのであろう。


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