2022.08.18
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

木漏れ日の射す劇場で

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第2回
訳・文:野村正次郎

現象を暗示であると見えている

瑜伽行者には教示が満ちている

深い森のなか舞台へと列をなす

木の葉たちは踊りつづけている

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深い森のなかを歩いていくと、少しだけ開けた場所へと辿りつく。そこはよく陽が当たる場所であり、見渡しも良く、空の面積も広い。木漏れ日だけしか浴びていない時には感じられなかった清々しさもあり、古く朽ちた大木が横たわっていれば、すこしそこに座ってみたいという気持ちになるものである。

まだまだ行く先は遠いので、しばらくそこに腰掛けてみるならば、森のなかで風が木の葉を揺らしている不思議な音楽が聞こえてくる。風は遠くから木の葉をかき集めてきて、この目の前の円形劇場のような場所へと連れてくる。しばらく観察していると、木の葉の舞踏団が様々な舞を見せてくれる。時には円を描き、時には激しくも、そしてどことなく懐かしくもある、やさしい舞を私たちの目の前で踊ってくれている。その舞踊はどんな芸術家たちが考え出した演目よりも、自然であり、心に浸入るものであり、静謐な風の音楽に合わせながら、適度な太陽光のスポットライトで美しい雫の乱反射が時に眩しいほどに輝いている。木の葉たちの舞はもう終幕なのかな、と思って静かに立ち去ろうとするのならば、また別の演目がはじまったかのように、また別の景色を見せてくれる。自然に私たちの心は静謐さを取り戻し、普段は忘れていた鋭敏な感覚を取り戻してゆく。木の葉たちの舞はお互いに憎み合ったりしないし、ひとりだけ目立とうとする図々しい葉っぱもない。時には、主役級の者もいるが、すぐに別の演者に主役を交代してくれて、私たちを飽くことなく魅了する。

これと同じように私たちが日頃見えているもの、聞こえているもの、匂ってくるもの、味わっているもの、触っているもの、それらから感じているもの、このすべてを自分の心のなかに余裕のある大きな舞台をつくってそれを眺めて見るのならば、さまざまなことに気づくことになる。観客は私たちだけであり、この舞台でどんなことが起きているのか、その意味はかつて師匠や如来たちが教えてくれたことばかりである。

私たちの心のなかの小さな舞台に、すべてのものを順々に出演させ、そのひとつひとつがどんな風にどんな芝居をしてくれるのかを静かに観察していくのなら、普段は決して気づかなかったことに気づくことができるようになる。私たちが出逢うすべての生物たちは死んでゆき、苦しみから逃れることもできやしない。しかしながら、ひとつひとつの生命は自らの踊りたい振り付けを一生懸命に踊っており、時には主役級の踊り手や歌い手がいるかも知れないが、悪役や恐ろしい化け物のようなものたちがいるのも、それほど悪いことでもないことが分かるようになる。この芝居を観ている私たちもここに永遠に留まることもできないし、彼らもまたここで永遠に私たちに恐ろしい表情を見せているわけでもない。いままで遠ざかり過ぎていたので気づきもしなかった愛らしい踊り子も、いままで近づき過ぎていて恐怖や嫌悪を抱いていた悪役たちも、自分たちの出番のその一瞬だけ、それぞれの能力の限りを尽くしながら、そこで舞い続けているだけに過ぎないのである。

この舞台の観客は私たちであるが、同時に私たちは舞台の芸術監督でもある。そして厄介なことに、私たちもまたこの舞台にたって何かを演じなければならない、何か挨拶でもするべき出番が必ずやってくる。私たちはただ批評するだけの観客であり続けることなどできやしないし、むしろもっと無限の数ある様々な舞台の演者であり、演出家であり、芸術監督でもあり、興行主でもある。だからこそまずは上手な踊り手の動きを観察し、常に稽古に励んでおかなければならない。木漏れ日の射すこの劇場の次の主役は私たちであるからである。

深い森の劇場には常にやさしいスポットライトがあたっている

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