2022.04.26
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

天空を飛び回る鳳凰のように

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第37回
訳・文: 野村正次郎

勝子として聖者地を学んでゆく時に

三世の勇者たちのいるすべての地を

ひとつずつ私は訪ねて巡ってゆこう

鳥たちの路を飛び回る鳳凰のように

他の勝子たちにも量り得ないほどの

広大極まりない所知の要のすべてを

淀みなく知る智慧を滞りなく発動し

広大なる行法の源流となれるように

43

如来たちはすべての克服すべきものを克服し、獲得するべきすべての功徳を得ている存在であるから、勝利者「勝者」と呼ばれる。一切衆生を自分自身で救済するためにこの如来の境地を自分が得なければならないと心に決めた者たちが「菩薩」であり、彼らは勝者の子息たち「勝子」と呼ばれる。

無我の真実を推理によってではなく直接の経験として現観し、その真実を直視する知によって、すべての煩悩の根源にある我執を直接断じはじめた者たちは「聖者」と呼ばれ、「出世間」の者であり、最初にその現観を得た見道位・それをさらに繰り返し修習して断じるべきすべての煩悩を断じてゆく修道位・すべての煩悩を断じ終えて、もはや何も学ぶべきことがなくなった無学道位と聖者たちは歩んでゆくが、ただ自分のためだけに解脱を目指している声聞・独覚の聖者たちは、自分たちだけのために煩悩を断じた寂静の境地を目指しているので、最終的にすべての煩悩を断じ終えた寂静涅槃の境地を実現しても、何一つ一切衆生のために役立つことはしない、自己完結的な聖者にすぎない。彼らは解脱の境地を実現し、それが一体どのようなものなのか、ということを直接体験しているけれども、ありとあらゆる心情や感情、思考をもった一切衆生を救済することはできない。何故ならば、最初から自分だけが解脱すればそれでよい、と心を決め、すべての衆生が何を見て、何を感じ、どんなことに苦しんでいるので、その苦しみのひとつひとつをどう克服したらいいのか、ということに無関心であるからである。自己完結な解脱は、その姿すら他者からは見えなくなる無余依涅槃の境地を実現しているが、彼らは寂静から立ち上がり、一切衆生の苦しみのために何かしようとはできないのである。

菩薩たちが目指しているのは、こうした自己完結な寂静涅槃の境地ではない。彼らは如来たちと同じように自分たちのために何処かに決して止まらない無住処涅槃の境地を目指している。彼らの志は広大であり、苦しんでいるすべての衆生たちのために、衆生たちが何を見て、何を感じ、どんなことに苦しんでいるのかをひとつひとつすべて直感し、彼らが苦しみを乗り越えるために必要な法を示すことができるようになることを目指している。声聞・独覚の聖者の見道位も、菩薩聖者たちの見道位も同じように無我を直観し、煩悩を断じているけれど、それが単に自分だけのために直観しているのか、それともすべての衆生を救済するために直観しているのか、という違いによって、明らかに菩薩聖者の見道位は質的には勝れたものであるのである。

私たちが菩薩として無我の真実を現観した後には、無我の三昧から起き上がって、日常の世間の活動をしている時には、後得清浄世間智と呼ばれる、煩悩には振り回されない清浄な知性をもって世間の活動をする。この世間の活動は、すべて衆生を利するための利他行であり、利他行を行うことによって、福徳資糧を積集することができるのであり、三昧時に煩悩を断じてゆく智慧資糧を積集していくことで、仏の身体と精神の両方を獲得していくのである。過去・現在・未来のすべての菩薩たちが聖者位を実現し見道を得た後に、修道位において、この仏の身体と精神の両方を獲得していく長い道程を歩みはじめるのであり、彼らは高貴で高潔で、たったひとり存在するだけで、実に数多くの衆生を救済していくことのできる圧倒的な存在である。彼らこそが私たちが仏教を実践する上で、救いの拠り所となる僧伽という宝石のような希少な存在であり、仏法僧の三宝に帰依する私たちにとって僧宝とは彼ら菩薩の聖者たちこそが中心なのである。私たちは一切衆生のために発心し、彼らの歩みを手本としなくてはならないのであり、三世の菩薩聖者たちが歩んだその道を私たちもまた歩んで仏の境地を目指していくのである。その歩みの全体は三阿僧祇劫という長期計画であり、この長旅で菩提心を決して捨てることなく、果敢にさまざまなことに挑戦し、困難を乗り越えながら、菩薩聖者たちは六波羅蜜を完成させてゆき、十地の階梯を登っていくのである。

この仏教を地上にもたらしてくれた私たちの師、釈尊は、以前にその伝記を見てきたように、菩提心を起こして凡夫の菩薩となり、第一の阿僧祇劫の間資糧を積集し、布施波羅蜜を究竟した初地・歓喜地まで至ったという。前偈でこの第一の阿僧祇劫の期間において、菩薩として孤高の勇者となることが表現されていたが、この最終段階の見道の獲得以降が、本偈の内容となる。最初の阿僧祇劫を締めくくる布施波羅蜜の完成は、たとえ自分の肉体が切り刻まれ、他の衆生へと施しても、その布施行は一切相智を実現するための資糧積集そのものであるからこそ、通常の人間のように苦痛を感じるのではなく、無我の真実を直観しているからこそ、大いなる歓喜に満ちていくというものである。

釈尊はその次の第二の阿僧祇劫において修道位の菩薩聖者として、第二離垢地・第三発光地・第四焔慧地・第五難勝地・第六現前地・第七遠行地までを実現された。ここでは六波羅蜜をすべて完成させてゆき、煩悩障とその習気のすべてを根絶させていったと釈尊自身がその経験談を大乗経典で吐露されている。第六現前地では般若波羅蜜を究竟するが、煩悩障とその習気のすべてを根絶させるまでには非常に長い期間が必要であり、釈尊の場合にでも一阿僧祇劫という長い期間が必要となった。

釈尊はその後、燃灯仏に師事し、未来において「あなたは釈迦牟尼如来となるだろう」という授記を受け第八地不動地を得て、その後、さらに一阿僧祇劫をかけて第九善慧地・第十法雲地と進んでいいき、最終的には色究竟密厳浄土で成道するまで菩薩行を歩んだとのことであるが、この菩薩としての三阿僧祇劫、出世間の菩薩聖者としての二阿僧祇劫の道のりを歩んだからこそ、ありとあらゆる衆生の苦しみとその苦しみを克服する方法のすべてをご存知であり、だからこそ一人一人の衆生がそれぞれ困難に直面している時に、なすべきことのすべてを自分の歩んできた経験をもとに教示して、すべての衆生を救済することができるようになるのである。出世間の菩薩聖者としてのこの長期計画は、無始以来煩悩に苛まれている無限の衆生たちの苦しみに対応する、実に広大無辺な計画なのであり、この計画が広大無辺にして長期に渡るものであるからこそ、釈尊や菩薩聖者たちは、衆生たちに無限の利他行を行うことができるようになっているのである。

前偈の記事でもみたような既に凡夫位において、二眼と五神通を獲得した菩薩聖者は見道以降、五眼や六神通をすべて獲得し、初地歓喜地から第十法雲地までの見道・修道位にある菩薩聖者たちは、常に菩提心という方便と智慧との二つの翼によって、功徳を増大させてゆく。

まず初地歓喜地の三昧から起き上がった後得位にて一刹那にして百の如来に直接拝謁できるようになる。この菩薩はそこで百の如来たちに、直接加持された知を得て、百の仏国土を往来可能になる。同時に百仏国土を示現させることができるようになる。異なる百の世間界を動かすこともできるようになり、百劫の間そこに止まることも可能となる。その百劫の前後には正しい智による観察が発動可能となり、異なる百の禅定へと入定することも可能になる。異なる百の法門を区別できるようになり、百名の有情を変化させて成長させることができるようになり、自分自身の身体も、異なる百体に分割して化現させることができるようになり、その一体一体の眷属として、それぞれ百名の菩薩聖者たちを眷属としてもち、彼らに取り囲まれた中心にいる菩薩聖者となることができるようになる。

信解行地ではあくまでも凡夫であるので、私たちはひとりしかいないが、真実を現観した後には、常に私たちはそれぞれひとつの意識の連続性を保ちながら、百体に分かれて、百名の菩薩衆たちと志を同じくし利他行を行うことができるので、いまはたった一人で、たった一人の衆生でも救うことができなくても、初地の菩薩となった瞬間から、このいまのたったひとりの私たちは総勢一万人の偉大なる菩薩勇者の軍陣を張ることができるようになるので、その軍勢を率いる私たちが行える利他行もかなりの大規模ということになるだろう。

三輪清浄の布施波羅蜜を究竟した初地の菩薩は、それぞれいまの私たちの百倍ということになるが、これ以降は各地において十倍ずつ、その保有する功徳の数は増えてゆく。すなわち第二地でこれらの功徳が一万、第三地で千萬、第四地で一億、第五地で十億、第六地で百億、第七地で千億、第八地で一兆、第九地で十兆、第十地で百兆へと数量が十倍ずつ増加した功徳を得ることになる。

こうして最後に三十二相八十種好を備えた第十地の菩薩は、その本拠地は色究竟密厳浄土であるが、百兆の仏国土を縦横無尽に往来できるようになり、百兆の化身を示現し、その各々に百兆の菩薩聖者の眷属がいるので、総勢となるともはや数えきれないような数の眷属をもったまま、最も微細な所知障を断じて、如実智と如量智が一体になり、無限無辺の衆生を救済するために、すべての対象が現等覚できるようになり、如来・応供・正等覚となり成道するのである。仏の功徳が不可思議であり、無量である、というのはこのようなことを意味しているのである。

以上の菩薩行が如何に完成していくのか、功徳を増大させ、菩薩地をどのように究竟していくのか、ということの詳細は、釈尊が『般若経』や『華厳経』で説かれるものであり、大乗仏教の根本教義であり、衆生済度のために現等覚を目指す菩薩を模範とする大乗仏教を学ばんとする者は、このような偉大なる菩薩聖者の姿を最低でも想像できなければならない。菩薩聖者の修行の詳細は『現観荘厳論』や『入中論』で簡潔に紹介されており、本会は大乗仏教の般若波羅蜜の学問を学んでゆく会であるので、それらの聖典に通じた善知識のラマたちが、再び本山デプン・ゴマン学堂から来ていただいて、また聴聞することができる機会を再開できるので、その際にこの菩薩聖者たちの偉大さを今後有志の皆様と共に驚嘆の声をあげながら、のんびりと学んでゆきたいと思う。

本偈は、真実を現観した菩薩たちが十地において、鳳凰が天空を飛ぶかの如く、百、千、百兆と仏国土を自由自在に方便と智慧というふたつの翼で飛び回ってゆき、利他行を行って、その功徳を増大させ、最終的に如来となり、自らが経験したそのすべてを法性の真実として示すことで無限の衆生を利益する、智慧の資糧が究竟した如来の精神である法身と、福徳の資糧が究竟した如来の身体である色身の二身を速やかに実現できますように、というツォンカパの、そして私たち大乗仏教徒すべての悲願を表現したものである。

釈尊もジャータカにあるように菩薩聖者の段階から様々な化身をだし様々に活動されてきた
私たちが功徳を積むための如来と菩薩聖者たちよりなる福田


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