2022.01.17
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

魔者たちとは交流しない

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第32回
訳・文: 野村正次郎

暗黒の側面が意志を揺さぶる

集いし法行の宴も中断させる

悪魔の親族たる悪友たちとは

刹那たりとも交わらぬように

37

私たちはいつも自分に利益を得ることを好ましく思い、自分の所有物が失われ、権利が阻害されることを嫌う。自分の名前が世間で存在感があることを望み、自分の名前が世間で誹謗中傷されると傷ついてしまう。他の人々から認められ、褒め称えられると嬉しく思い、他の人々から貶められると悲しく傷ついてしまう。いつも自分は幸せでありたいと思い、幸せを感じられないことを嫌い、不幸な境涯にいることを恨めしく思う。これはこの世の法則であり、この壊れゆく世に生きている私たちはこの八つの風に吹かれて、あちこちへと流されて自由気ままに生きていたいと思う。

しかしふらふらと幸不幸が混在するこの世間に風に流されていきていても、私たちの生命を奪う死というものがやってくる。今日は幸いに目覚めることができたかも知れないが、明日までこの生命は継続するのかどうかの保証はない。今日やろうとしていたことは出来ず仕舞いになるかも知れないし、二年後、三年後は闇である。ここに生きている限り、常に私たちは死神たちの方へと進んでいるのであり、死は無残にも予告もなしに一気にやってきて、私たちの生を奪ってゆく。日々老いてゆき不自由になること、肉体が日々変化し、「病い」と呼ばれる症状がでること、そして死へと向かうこと、これはすべての生物が共通に取り憑かれている悪魔である。

このような悪魔に取り憑かれているのは、私たちが無限の過去世から八つの風に流されながら知らず知らずに積み上げてきた悪業とそれを突き動かしてきた私たち自身の心に潜んでいた煩悩にその原因がある。自分では意識できないし確認できもしない無限の悪業が私たちの心には蓄積しているのであり、この心には無始以来の我執の無限の歴史とその痕跡が刻まれている。注意深く自分の心を観察していなければ、すぐにでも心は暗黒面を顕著にさせ、自分では自由であり、良かれと思っていても、実は自己中心的な煩悩に突き動かされている場合の方が多い。だからこそ私たちが幸せであると感じられるものは、せいぜい不幸の程度が多少和らいだ子供騙しのようなものに過ぎないのである。

過去に為してきた数々の悪業も、いま暫くは不幸という結果として現れていないものもある。如意宝珠よりも貴重な人身を得て生まれてきた、仏法というこの地上で最も価値のあるものに出会うこともできている。荒涼とした砂漠のなかに生きているわけではなく、人々のやさしさに包まれて、如来の教えた正法とは如何なるものなのか、それに耳を傾けて、それを実践していくための仲間もいる。世間の風に流されることなく、変わらない愛に満ち、微動だにせぬ慈悲と智慧に満ち溢れた仏法という甘露を囲んだ饗宴がこの世にはある。しかしこの愉しい宴に参列するためには、悪しき心に揺さぶられ、悪しきものをそこに持ち込んではならない、というルールがある。善き友に巡りあい、善き友たちと如来の家族の一員として過ごすためには、世間の恐ろしい武器をここに持ち込んではならない。とはいえ、私たちの心は未熟であり、隙だらけであるので、善なる営みを行おうとしても、天使の声のように聞こえる悪魔の囁きにより、意志はすぐに揺らぎ、悪魔たちの親戚である、善を阻む勢力に敗北してしまいそうになるのである。

如来の別名として「勝者」というものがあるが、この勝利者を表す言葉は、死魔・煩悩魔・天子魔・蘊魔というこの四魔の軍勢を完全に制圧し、勝利した方という意味である。釈尊がかつて慈愛の軍勢によってこの悪魔の軍勢を制圧されたのと同じように、私たちもこの悪魔の軍勢に決して屈してはならないし、この戦いを放棄して敗北しつづける訳にはいかないのである。何故ならば、この戦いに敗北し、勝利への道を諦めている限り、輪廻の牢獄から決して脱獄できないし、それは私たちだけではなく、私たちが愛してやまないすべての衆生を不幸にしてしまうからである。

煩悩や悪魔たちとの戦い方は、きわめてシンプルなものである。できるだけ他の衆生を傷つけないようにする、という基本方針に基づき、問題に直面したらその都度解決策を講じていく。欲望が強く心に起こっているのならば、少欲知足を実践すればよいし、怒りや憎悪を鎮めるのは、忍耐によって実現可能である。その都度不幸を感じることをできるだけ減らし、幸せを感じたいのならば、他者を思いやり、他者に利益をもたすようにすればいいだけである。難しいこともあるが、容易にいますぐ取り掛かれることもある。そして善なる取り組みをはじめたのなら、たとえ暗黒の側面のものに出会うことがあったとしても、通りすがりの人のように相手にしないのが一番である。煩悩や悪魔というのは実は構ってほしいだけの、憐れで慈しむべき者たちであり、ひとつひとつ過度に取り合ったり、その営みに加担したりすべきではない。暗黒面の軍勢が、一切衆生を利益しようとする大悲心の軍勢に勝利することは決してない。ただ私たちはまだまだ未熟なので、心の表面に起こってくる悪魔の軍勢たちを構って相手にすれば、大変なことになる。何処かに歩いて行こうとすれば景色は自然と移り変わる。これと同じように善なる方角へと向かっていく時には、暗黒なる方角から囁かれるさまざまな声が道の喧騒のように聞こえてくるだけである。どうやったらこの道を安全に進むことができるのか、そのやり方は既にここに示されてある。後は悪魔のペースに翻弄されることなく、自分のペースでぼちぼちとやるだけなのである。

本偈は、一切衆生の利益のための菩提心という意志をもつ、菩薩行を自ら学ばんとする菩薩が、悪魔たちの厄介事に巻き込まれないように、できれば一瞬たりとも悪魔の親族たちに出会うことがないように、というジェ・ツォンカパが如来の慈愛そのものが化身となって出現した弥勒仏へ請願する表現である。この請願の対象となる弥勒仏とは、かつて釈尊が魔の軍勢を駆逐した三世の如来の慈愛そのものであり、すべての衆生を幸せにしたい、というこの稀有なる悲願のなかに、それを阻む勢力に一瞬たりとも主導権を握られないようにしたい、という願いを重ねたものである。

デプン・ゴマン学堂の問答法苑を魔物たちから守る護法尊・獅子面天女

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