2022.01.16
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

善き友に出会えるためにできること

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第31回
訳・文: 野村正次郎

牟尼が定め給える矩を踰えることもなく

勝者の家業を継ぎ 善知識を敬っている

円満な鋭根をもち 逆禍から離れている

そんな清浄な者に囲まれて在れるように

36

仏教に関わり、仏教を実践していく上で、私たちひとりひとりが孤独に釈尊と向きあう、ということは、極めて重要である。釈尊がこの地上に降誕しなければ私たちはいま、どこを向いて生きていけばいいのか皆目検討もつかないし、その教えを伝えてくれる人がいまいるおかげで私たちはこれから先どうしたらよいのか、ということを教えてもらうことができる。

しかし釈尊にしても私たちの師匠にしても、私たちよりは随分と先を進んでいることだけは確かである。チベットの僧院に暮らしている彼らと現代の日本に住んでいる私たちの暮らしぶりには圧倒的な差がある。彼らは独身主義を貫き、禁欲的でかつ、常に仏典を紐解き、それを誦じて、日々経典のなかにあるような物事を考えて、思いに耽っていたりする。現代の日本で普通に生活している学生や社会人とは遥かに違う文化のなかに生きているので、私たちは釈尊の教えやそれを実践する、ということは、自分とは関係のない、他人事のように思えてしまいがちであることは確かであろう。

しかしながら仏教とはそもそもひとりで実践するような類いのものではない。時代・民族・言語・宗教・社会など様々に異なる背景をもった人々が実践しなければならないのが釈尊の教えである。

釈尊はインド人だからインドの人しか解脱できない、ということもないし、ジェ・ツォンカパは中世チベットの学匠だからいまの日本人には無関係な人だと考えるべきではない。釈尊の時代にはインターネットや鉄道や飛行機がなかったからといって、いま私たちが解脱できないわけではないし、現代社会では解脱することができないとするのならば、釈尊は絵空事の架空の物語を説いただけということになるだろう。また解脱や一切相智を目指さないのならば、仏教を実践する必要もないし、普通に現世利益だけを目指して欲望に作用されて苦しみ悶えていればいい、という話になるのである。

何かの計画を実践していく上で、志を同じくする仲間が必要である、というのは、特段仏教の実践に限る話ではないが、仏教のようにある程度社会との距離をおいて生活することを推奨しているライフスタイルで過ごすためには、志を同じくしている仲間がいる、ということは日々の生活にも極めて重要な要素となる。そしてその仲間というのは、善を行うための仲間なのであり、私たちの心が挫けそうになった時でも、その仲間たちと悩みなども共有して、一緒に苦難を乗り越えていくための仲間なのである。本偈は自分の周りには、常にそのような素晴らしき法友たちに恵まれますように、というジェ・ツォンカパの願いを表明したものである。

ここでジェ・ツォンカパが自分の法友として、まずは釈尊が定めた倫理規定に違反しない、というものを最初にあげている。釈尊の説かれた戒律とは、他の衆生に対して、害さないようにという意思をもつことである。生物を故意に殺すべきではない、無駄話ばかりして過ごすべきではない、などと釈尊が定められた倫理規定に違反する、ということは、戒律に反する意思、つまりこの程度なら衆生を苦しめてもよいだろう、という危害の許容範囲を定めようとすることであり、この考えそのものが他の衆生を苦しめないようにしよう、という意思に反するものである。しかるに、どんな人間であっても、少しでも他の衆生が嫌がるようなことや苦しむことはやめておこう、という意思をもっていなければ善業を実践するための友達にはなれないのである。

また「勝者の血統を継いでいる」とあるが、これは所謂「俗世間の家業を継ぐ」のではなく、「如来の出世間の家業を継ごうとしている」ということを表している。たとえば生まれながらにして屠殺業や漁業を営む家系に生まれたのならば、たとえどんなに親戚一同から要請されても、殺生は避けるべきことであるので、家業を継承しないように出家するか、家業を継承しても、事業転換するように策を練って殺生をしないで利益を生み出すような工夫をしなくてはならない。さらに仏教を釈尊たちの代わりに教えてくださる善知識たちを敬う心がないのならば、私たちはそのような者たちとは友達にはなることはできないし、もしも本当に友達や家族を思うのならば、すぐには難しくても徐々に生業が釈尊の説かれた戒律に反しないようにこちら側から努力や愛情を注ぐ必要があるのである。

また自分も仲間も客観的認知力(信)・精神力(勤)・記憶力(念)・集中力(定)・知力(慧)といった五つの能力(五根)が長けているか、もしくはその能力を伸ばそうとしている者たち、であることが必要であり、行動・言動・思考の身口意の三つの業門が、逆の方向、すなわち十不善の方向へと向かないようしていることも善業を積集していく上で法友の大切な条件となる。たとえば五つの能力に長けている者でも、自己中心的な発想でできるだけ多くの衆生を犠牲にして、私利私欲を見たそうとしているようなものであったら、決して友達になることなどできない、ということである。

このような仏教を実践していく上で清浄なる法友に恵まれる、ということは極め重要なことであるが、これはまずは自分たちがどんな他の人や衆生に対しても、「善き友」であろうとすることからはじまる。悪いことをしようと企てて、悪い友を探そうとすれば、悪い仲間に出当えるが、善いことをしようと企てて、善い友を探してゆくならば、自分が他人から信頼のおける「善い友」である限り、必ず、人は出会うべく時に出会うべく人に出会うことができるものである。自分は周りの人に恵まれていない、自分のいる環境はこうなので、自分はこうあるしかない、というのは単なる言い訳である。周りの人間を変えることよりも、自分がよりよい人間に変わることの方がはるかに簡単で、はるかに早く実現できることである。しかるに、善き友、善き法友に恵まれて、心優しい慈悲に満ちた人々に接して仏教を実践しようと思うのなら、まずは自分たちがそのような節度がある、他の生物にとって勝れた友だちであれるように、日々自己研鑽を積み重ねていく必要があるのだろう。

本偈はジェ・ツォンカパが一切衆生利益を目指して菩薩行を実践するために、まずは自分自身が菩薩行をきちんと実践できますように、そのために法友に恵まれますようにという願いを表明したものであるが、同時に私たちひとりひとりが、すべての生きとし生けるものたちにとって、そのような素晴らしい善き友であらんとしなくてはならない、という決意の表明でもあると思われる。

この悪友が比丘を誘惑する図版は以下の『勝子行三十七頌』の偈文を表現したものである。

付合えば三毒を増やしてしまう

聞思修の所行より堕落させる

慈悲を無きものとさせる

悪友を捨てる これが勝子行である


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