2021.10.05
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

彗星が流れていく方へと

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第24回
訳・文: 野村正次郎

恐るべき輪廻の断崖に墜ちないように

無垢な志をもち聞法を繰り返してきた

真偽を量るため清浄な道理の力をかり

無限の善説の了義・未了義の何れかと

他者に頼らなくても如実に峻別できる

賢者の境地を得なくてはならないのに

然れども勝者の微細な意趣はもちろん

進むべきか退くべきかの方向性すらも

判然と視つめる眼を私はもっていない

またこの魔の闇に覆われて消えてゆき

視界もなく解脱への出口も見えてない

思い給えよ この様を 闇を払い給え

28

どんなことをしても逃れることのできない、ただひたすら恐怖を味わうしかない、輪廻の断崖に落ちないよう、この輪廻から脱出するための解脱と一切智を実現するための如来の言葉に私たちは耳を傾けている。この諸仏の教えは、私たちに光明をもたらしてくれるものであると感じることのできる私たちは、それに耳を傾け、心を向かわせるとき、もう失われそうになった純粋さを思い出しながら、決して変わることのない、正しい道への方向と、その歩み方を繰り返し習ってゆく。

仏教は道理に適ったことだけを説いており、何が正しいのか、何が正しくないのか、それをいつも教えてくれる手がかりを示してくれている。如来が出現しようとしまいと如来が説かれている法性の真実はそこにあり、私たちはそこにある手がかりをもとに、その真実を視つめることができる、ということを習っていく。最初はなかなか分からないので、まずはこのことを理解しなさい、そしてこの時にはこんな風に考えなさい、と説かれている通りにやってみる。しばらくするとこの教えは表面的には、暫定的にはこんなことを目指しているが、深く考えていくとこうであり、究極的にはこのような境地を目指すべきであるという教えにたどり着く。最初は未だ解釈の余地のある未了義の教えからはじめてみて、最終的にはもはや微動だにせぬ真実そのものである了義の教えを拠り所にする。そんな八万四千の法蘊と呼ばれる数えきれない教えを釈尊は私たちに教えてくれている。

私たちが決して思い上がることなく、このまま純粋な気持ちを保ったまま、如来たちの教えの通りに実践していけば、この無尽蔵な教説の宝物を私たちは心に抱きしめ、毎日の出来事などには振り回されないようになるはずである。段々といまよりももう少しだけいつもうまくやれるようになるはずである。昨日よりも今日は少しだけうまくやろうと工夫してやっているつもりだし、昔よりは今の方が大分ましになった自分がいまここにいるようにも思えてくる。

しかし本当にそうだろうか。昨日よりも今日の方がうまくやれているのだろうか。いまひとつひとつのことが輝かしく清らかに巡っているだろうか。そんな問いかけをしてみるとき、私たちは今日も対して進歩のないことを繰り返しているし、昨日も今日も大したこともないことに振り回され、昨日も今日も漠然とした闇のなかで、何も見えてないことに気づいてしまう。自分を過剰評価すべきではない。かなりやったつもりでも、未だ全然できていないのである。

さまざまな仏典を紐解き、素晴らしい先生たちに、釈尊のことばについて様々なことを教わってきたことは事実である。しかし如来たちの存在はまだまだ私たちから遠い存在である。彼らが私たちに教えようとしたその真意は非常にきめ細やかな論理と目的意識に裏付けられたものであるが、私たちはそれをただ漠然となんとなくしか捉えることができていない。

今日はこんな選択肢をとり、こちらの方へと進むべきであろうか、いやいや、そうではなくそっちには行くべきではなく、そっちに行くことを避ける方がいいのであろうか、そんなことを落ち着いて正しく判断するために考える暇もなく、目まぐるしく私たちは生きることを余儀なくされている。人間に生まれてきてゆとりと暇があるにも関わらず、それは他の衆生よりも少しだけましだというだけで、業果の炎の穴のなかで、ただひたすら一刻の猶予もなく悶えていることには変わりない。

刻一刻と時計の針は進んでおり、私たちの心臓の鼓動は私たちのこの生命の終焉を告げるためのように、自分の心の暗い闇のなかに潜んでいる魔物たちによって鳴らされている。私たちはそんな暗黒のなかに生きており、この暗黒からの出口がどこにあるのかも、まったく見えてこない。釈尊がかつてその出口はここですよ、と教えてくれたことは知っているし、それをどう感じていったらいいのか、ということも星屑のように輝いている方々の言葉に耳を繰り返し傾けてきたので分かるはずである。

しかし、いざひとりになった時、こんなにも深い闇に迷い込んでいることだけを私たちは思い知る。昨日よりも今日はすこしだけ器用にうまくやった気がするのだが、実は単に自分のことをよく思いたいと思っているだけなのである。今日よりも明日はきっとうまくやれる気がしていても、不安でたまらない時が残酷に死を告げている。私たちの未来はひょっとすると明日もまた明るくはないのかもしれない。明日もまた辛いこと、悲しいことだらけなのかもしれない。明日もまた明るい未来は待っていてくれないのかもしれない。

弥勒仏はこんな不肖の釈尊の弟子たちである私たちの幸福を常に願ってくれているとのことである。こんな深い闇に彷徨っている私たちのこれからの未来をどうか見捨てないで頂きたい。どうぞ弥勒如来よ、こんな深い闇のなかで彗星のように明るく眩しい光の筋を見せ、釈迦牟尼如来の説かれた道を見せてくれないだろうか、そんな悲鳴をせめて叫んでおこう。本偈はこんな不肖の釈尊の弟子たちの悲歌を表している。

空が近いヒマラヤ山脈の向こうへと流れ星が導いていく

RELATED POSTS