2021.10.11
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

流れる心の塊とその佇まい

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第23回
訳・文:野村正次郎

識蘊とは眼識などの六つである。

色・受・想・行・識の五蘊の最後の識蘊とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識であり、それらを生じる増上縁たる感官は眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六根であるが、眼識から身識までのものは、外部の物質を感受するものであるが、意根が感受するものは、物質以外のものである。識蘊とは精神そのもの・心そのものの全体であり、眼識から身識までのものは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・感触にあたり、これらの感覚が対象を感覚的に捉えようとする時に、意識の表面へと起こってくるが、睡眠時などには活動を停止している。識蘊を理解するためには、この活動停止状態と活動状態の違いを理解するとよいだろう。

たとえばある人が眠っている場合には、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根は休息状態にあり、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識は意識の表面において積極的な活動をしていない。それはその眠っている人の鼻の先にほのかな匂いのするものを近づけても、その人は眼を覚ますことからも分かるであろう。しかし身体的なものである、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根は急速状態であるが、この五つの感官自体が、身体からなくなっている訳では無いので、強烈な照明をその人に照射したり、隣の家の人にまで聞こえるような強烈な爆音を鳴らしたり、強烈な汚臭を漂わせたり、口のなかに辛い液体をこっそり入れたり、足の裏を鳥の羽根でくすぐるなどするきっかけをつくってあげると、普段活動している眼識・耳識・鼻識・舌識・身識などがすぐに活動をはじめ、睡眠状態から覚醒状態へとなり、目を開けて眩しいと思ったり、起き上がって耳を塞いだり、鼻を詰まんで、悪臭を避けようとしたり、唇を硬く閉じて液体を入れられないように抵抗したり、足を引っ込めて嫌がったりする。

これらは感覚に基づいて生じる受蘊である苦受を避けようとする反応であるが、こうした感覚的な反応は、睡眠時や感覚が麻痺している状態とか、昏睡状態には起こらないことからも、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・感触が活動を休息している状態や感覚自体がなくなっていく状態も理解することができる。私たちが死んでいく時もこれと同じ状態が起こっており、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・感触が活動休止状態からさらに進んで消滅状態へと向かっていくことで、五根に基づく積極的な感覚がまずなくなり、表面化していない急速状態にある感覚は、完全に無反応な状態へと進行し、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識が表面化できない無感覚の状態になり、ただ意識のみが継続している状態へと進んでいく。この状態で最終的にいまの身体とこの精神との結びつきが途絶える時を「死」といい、この精神がいまの身体で起き上がることを「目が覚める」と呼び、別の身体で起き上がることを「再生」「転生」と呼んでいるのである。輪廻転生の主体はこの六識のなかの意識であり、この意識はいまの私たちも常にもっており、この意識自体は無始から別の身体でおきながら、転生しつづけてきているものであり、これは識相続、心相続と呼ばれているものである。十二支縁起の第三支の識支はこの意識であり、中有や結生相続したばかりの意識は、まだ、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・感触などが発生するきっかけとなる身体器官などが出来上がっていないので、この意識のみに蓄積されている過去のすべての業をきっかけとして、さまざまな身体器官を構成し、さらには外部世界をもこの意識に蓄積している業がきかっけとなり構成していくのであり、それ故に「業が世間を作っている」と表現できるのであろう。

通常私たちは五感の感覚にばかり翻弄されているし、いまもっているこの意識のはたらきをそれほど明確に自覚していない。この意識がどこからきて、そしてどこへ行くのか、ということも意識していない。この意識が感覚器官によって様々な感覚を生み出して、それを元にさまざまな経験をし、その意識の動きと同時に存在している心所法などの相応行や生物である不相応行などもすべて私たちの存在とは不可分な存在であると「私」と考える我執によって考えている。またこの心や意識はほかのすべてのものを感じたり、考えたりする主体なのであって、他のものに作用されこの識蘊が動かされているわけではない。しかし日常的に「私たちはあの人たちにひどい目に遭わされた」などと自分の心が好き好んで選んで経験したものに対しても、まるで他人事のように錯覚を起こしている。これは自分の心をまるで他人の心のように錯覚していることと変わりないのであり、自分で自ら石につまづいてしまい、転んでいるのにも関わらず、石が自分に苦痛を与えたと錯覚し、石を蹴飛ばし、石を憎んでいるのと全く同じ滑稽な道化師のようなことをやっているということなのである。

釈尊はまずは苦諦を知りなさい、と説かれ、苦諦を知るということは行苦を知ることであり、この五蘊でできた私たちが苦しみの材料として考えているこの蘊自体が、まるで魔物のように私たちを苦しめ続けている、ということを意味している。その五蘊のなかでも識蘊は私たちの遠い過去の無始の前世から継承してきたものであり、今後もまたこの識蘊を継承していかなくてはならないものである。夜目を閉じて眼根を休息させ、再び朝を迎え、眼を開けてさまざまなものを見て、さまざまなことを感じている主体、この輪廻の主人公は、私たちの意識そのものである。私たちは主人公としてどのような生を演じようとするのか、その演技は私たち以外の人たちによって常に見られているのであり、私たちの心の動きは他の人たちの心を動かしていく。昨日の夜が去り、今朝の世界があるように、これから私たちは流れ続ける意識を主人公として、新しい朝と新しい月日を迎えなくてはならない。仏法は心や意識を浄化して、よりよい心の佇まいを作っていくためのものである。この塊上になっている心の灯火を撃風に右往左往し魔の闇をつくりだすのか、あるいは静かに静寂のなかでやさしい光を放ちつづけるものとするのか、それを調律する主人公は、私たち自身にほかならない。

Joan Miró, Personaje Y Sol Rojo I, 1950.

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