2018.12.04

B2 自派の学説規定を若干分類した説明

クンケン・ジクメワンポ著『学説規定摩尼宝蔓』試訳(3)

B2 自派の学説の規定を若干分類した説明には二つ。C1通論・C2各論

C1 通論

無比なる説法者、釈迦王こそは、初めに最勝菩提心を御発心なさり、中間には三阿僧祇劫の間資糧を御積みになり、最終的には金剛座の頂で現等覚なさり、ヴァーラナーシーの地で五賢従者に対して四諦法輪を転ぜられた。その後、霊鷲山で、第二の仏説たる無相法輪を転ぜられた。その後などで善く区別された法輪を広大に転ぜられ、外教の六師等の悪説をすべて圧倒し、利楽の源泉たる、仏陀の教説という宝を広く普及なされた。

その後註釈者たちが三法輪の密意を各々註釈したことにより、四種の学説論者が現れた。そのうち対象実在論の二派は初転法輪に従い、無自性論者は中転法輪に従い、瑜伽行派は後転法輪に従ったことで、〔それぞれ異なった〕基体・道・果という三つの規定を宣布した。我々の説法者たる釈尊に追従している学説論者には、毘婆沙部・経量部の二派、中観派・唯識派の二派、という合計四派が有り、これが定数である。何故ならば、それ以外の「第五番目の学説論者」とか「三乗とは別な第四の乗」といったものは有り得ないと言われているからである。『金剛心註』で「仏教徒のなかに、第四番目のもの(乗)とか第五番目のもの(学派)〔が有るという考え方〕は、牟尼の密意ではない」と説かれる通りである。

自立派以下の学派は、帰謬派が計量するならば、常断の二辺に陥っていることになる。しかしながら各自の教義上、〔自分たちの学派こそが〕「中観派である」と主張している。常・断の二辺を離れた「中」を承認していると思い込んでいるからである。

さらに四学説論者には常断の辺を断じる各々異なった形式が有る。すなわち、毘婆沙師は「果が生じる時、因は滅している」ので常辺を断じ「因の最終時に果が生じる」ので断辺を断じていると述べている。経量部は「諸々の有為は相続が断絶せずに働いている」ということで断辺を断じ、「〔それらは〕刹那滅である」ということで常辺を離れていると主張する。唯識派は「遍計所執は真実不成立である」ということで常辺を断じ「依他起が真実成立である」ということで断辺を断じていると述べている。中観派は「一切法は言説として有る」ということで断辺を離れ「勝義としては無い」ということで常辺を離れていると考える。

また、それぞれ上位の学説はそれぞれ下位の不共の学説を否定しているが、下位のものに対する理解は、上位のものに対する理解の非常に勝れた方便と思われる。したがって上位の学説こそを最高のものであるとし、下位の学説を嫌悪すべきではない。

したがって、宣布された四法印を承認する人、これが仏教学説論者の定義であるとされるのである。四法印は有る。すなわち「一切の有為は無常である」、「一切の有漏は苦である」「一切法は無我である」「涅槃は寂静である」〔という四つ〕である。

もしも「犢子部は人我を承認しているので、仏教学説論者でなくなってしまう」と言うのならば、そのような過失は無い。彼らが承認する我とは独立自存の実体有たる我のことであるが、四法印の中の無我とは、常住・単一・自在なものに関する空という無我を指しており、前者については五つの正量部も承認するからである。

C2 各論

C2の各論には、D1 毘婆沙部の学説D2 経量部の学説D3 唯識派の学説D4 無自性論者の学説との四つが有る。


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