
チベット暦の正月は、「神変月」(チョトゥルダワ)とも謂れ、教主釈迦牟尼如来が御歳57歳の時に、プラセーナジット王(波斯匿王)やビンビサーラ王をはじめとする人間の諸国の王や神々が施主となって舎衛城にて数々の神変を化現し無数の衆生を教化なされた大事業を追想する釈尊の四大節のひとつである。
この故事は「舎衛城神変」あるいは「千仏化現」として大変有名であるが、チベット仏教文化圏圏では、この故事に因んで僧俗が結集し、釈尊を追想する「神変祈願大祭」(チョトル・モンラム・チェンモ)が各地で開催され、一年のはじまりを告げる最も大規模な法要が開催されている。
このチベット仏教文化圏で開催されている「神変祈願大祭」は、1409年にゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパ大師がはじめたものであり、ジェ・ツォンカパ大師の四大事業のひとつとして数えられる極めて重要な法要である。ジェ・ツォンカパ大師は、チベットで最も重要な釈尊像であるラサのトゥルナン寺の文成公主招来のジョウォ・リンポチェを、かつて荼枳尼天のウッディヤーナ国にあった時に五仏の宝冠で荘厳された報身仏の姿へと復興するために、ジェ・ツォンカパ大師は黄金の宝冠などの荘厳を奉納し、その善資を廻向しその効果も何万倍にもなるようにと願いを込め、「神変祈願大祭」を正月朔日から十五日まで開催したものであるが、毎年開催されるようになり、一時期トゥルナン寺で開催することが出来なくなったこともあるが、ダライ・ラマ2世ゲンドゥン・ギャツォの時代に再開し、その後、1959年にダライ・ラマ14世がゲシェー・ラランパの最終試験となった問答を披露する時まで、デプン大僧院が主催して継続してきたものであり、1959年にダライ・ラマ法王がインドに亡命した後にも、一時開催できない年もあったが、今日までほぼ毎年約600年以上も継続している大祭である。弊会で運営している日本別院では2005年にはじめてケンスル・テンパ・ゲルツェン師および僧衆一同で、日本でも小規模でもはじめることとなり、その後開催できない年もあるが、この時期は、釈尊の神変月に合わせて釈尊を追念するための一年で最も重要な大祭として位置付けている。
本年度は本来ならば24日から日本でも開催すべきであるが、現在ゴペル・リンポチェは本山での密教学級の最終試験を受験されるために帰国されており、特別な法要を開催することは出来ないが、インドでは今年はガンデン大僧院で「神変祈願大祭」が開催されるので、そちらに浄志を送り沙門衆の供養を行なっていただくことなっているが、釈尊が化現なされた「舎衛城神変」とはどのようなものであったのか、その内容を第十四代デプン座主パンチェン・ロサン・チューキ・ゲルツェンが著した「神変讃」と呼ばれる釈尊に対する礼懺偈よりなる詩編の全文をここに訳出して、若干内容を補足しながら関係諸氏に紹介させて頂くこととしたい。本詩編は分量も短く、舎衛城神変を概括し追想するため簡便であり、釈尊に対する礼讃としては「神変祈願大祭」の時以外の、サカダワ大祭や転法輪大祭や降臨大祭といった他の釈尊の大祭でも読誦されるものである。デプン僧院の法要勤行集にも収録されている極めて有名なものであるので、日本でも多くの方々に資するものと思われる。
ナモー・グル・ムニーンドラヤ
広大な二資糧のすべてを究竟されて
内外四魔すべてを降伏され大王を従えて
一切を通達なされた方 天中の天たる方
釈迦族の主人 君を礼拝する
現在我々が仏教という宗教の教主として仰いでいる釈尊は、無限の過去世において発心し、その後三阿僧祇劫という非常に長い時間をかけ、広大無辺に煩悩障と所知障を断じるために福徳資糧と智慧資糧を完成させ、菩薩の十地を究竟した後に、色究竟密厳浄土において仏陀となられた方である。色究竟密厳浄土密厳浄土には、報身仏として菩薩たちにのみ久遠の説法を行なっているが、それでは本来の如来としての利他の活動が出来ないため、所化の要望に応じて無数の化身を過去・現在・未来にわたって化現し続けている。
その無数の化身のうちの最勝なる化身、すなわちこの閻浮提に人身の姿を示して降誕される前には、兜率浄土にて長期間説法を行われ、しかるべき時が来たことを観じて、兜率浄土での説法師の役割を弥勒仏へと移譲して、閻浮提のインドの釈迦族の王子として降誕なされた。その後、シッダールタ王子としての役割をすべて成就した後に二十九歳の時に出家し、六年間の苦行をした後に、御歳35歳の時、ネーランジャラー河の畔の菩提樹の下に赴かれ、死魔・天子魔・煩悩魔・蘊魔を降伏させ、4月15日に現等覚の相を示し、49日間は沈黙を保たれたが、サルナートのバーラーナーシーにて6月4日に四諦法輪を転じられ、44歳の時には母摩耶夫人に説法するために三十三天にて夏安居をされ、三道宝階を下って9月22日に閻浮提へとお戻りになり、再び説法を再開し諸国を行脚され、閻浮提の九人の大王からも帰依を受けた。
舎衛城神変は釈尊が御歳57歳の時にプラセーナジット王(Prasenajit 波斯匿王)が統治するコーサラ国のシュラーヴァスティ(舎衛城)で示された釈尊と六師外道の師たちと行なった神通力の競技大会における釈尊の行状であり、そのような神通力の競技大会が開催された背景としては次のようなものがある。
舎衛城において神変の競技大会は何故開催されたのか
護主 君が竹林精舎に居られた時
嫉妬に駆られ六師たちが要望した
諸国の王にも頼まれ神変を示現し
彼らを調伏し摂取なされた君を礼拝する
マガダ国王の国王ビンビサーラ王(Bimbisāra 頻婆娑羅)は首都ラージャグリハ(王舎城)の近くの竹林を釈尊に寄進し仏教最初の僧院である竹林精舎を建立し、常時如来とその弟子たちに、このビンビサーラ王は深く如来に帰依していた。しかしながら弟は釈尊成道以前と同じように六師外道たちを供養し、特に善業も悪業も無意味であるとするプーラナ・カーシャパ(Pūraṇa Kāśyapa)を仰いでいたが、兄王の度重なる説得や釈尊の類稀なる威光に感服し、改宗して釈尊に帰依するようになった。
釈尊とその弟子たちの活動は、六師外道たちへの供養品が自然に減少していくようになり、六師外道たちは魔物にも誑かされて釈尊とその弟子たちに強く嫉妬するようになり、何とか自分たちの地位と名声を取り戻そうと、神通力の使用を禁じていた釈尊と公衆の面前で神通力の競技を行い、自分たちの神通力の方が勝っていることを公衆の面前で証明し、より神変力を示せる者こそ供養すべきなのであって、釈尊にはその資格がないことを証明したいので、神通力を競い合うための準備をして欲しいとビンビサーラ王に申し出ることになった。しかしこの要望を聞いたビンビサーラ王は多いに失笑し、「あなたたちは何とも愚かなことよ。仏陀の神通力は絶大である。どうやって仏陀と神通力を競い合うというのか」と言ったが、六師は、「いまから七日後に釈尊と神通力を競い合うので会場を準備しておいて頂きたい。どちらが勝つのかしかとご覧ください。」と固執した。ビンビサーラ王は、実際に衆人の面前で釈尊と競い合わせたら、彼らが必ず負けて大恥をかいてしまうので、それも良くないと考えて、釈尊に事情を相談させて頂くことした。すると釈尊は「私自分然るべき時は分かっています」と語られたので、ビンビサーラ王は取敢えず神通力の競技場となるものを準備したが、七日も経たぬうちに釈尊とその僧団は、リッチャビー族の住むヴァイシャーリー(毘舎離)へと移動してしまったのである。
釈尊と神通力の対決が出来なくなった六師たちは「ゴータマは私たちよりも神通力において勝れていると自負してはいるが、いざ試合をする段になったから逃亡した」と慢心し悪評を吹聴し、釈尊たちの後を追ってヴァイシャーリーへと向かいそこでもまたリッチャビー族の人々に迫り神変の競技大会を開催するように要請したが、ここでもリッチャビー族の人々は困り釈尊にその旨を相談したところ、再び釈尊は「私自分で然るべき時を分かっています」と語られ、対決を避けて競技が開催される前日には弟子を引き連れてカウシャンビー(憍賞弥国)へ移動してしまった。
六師たちはそこにも釈尊を罵りながら追いかけて、ウダヤナ王(優填王)王に要請し、王は釈尊に相談すると釈尊は「私自分で然るべき時を分かっています」と語られたが、釈尊も神変を示すことなく、カウシャンビーからはシュンチダラ(屯真陀羅)が統治する越祇国へと移動され、その後にはインドラヴァルマ王(因陀婆彌王)が統治するチャンパ国、ブラフマダッタ王(梵摩達王)が統治するヴァーラーナシー、釈迦族の住むカピラと同じことを繰り替えしながら移動されていき、最終的にはプラセーナジット王(波斯匿王)の統治するシュラーヴァスティ(舎衛城)の祇園精舎へと到着された。
釈尊はこうして神通力の競技による対決を避けて諸国を移動したが、六師外道たちの慢心と対抗心は一層強まり釈尊を逃亡したと罵るだけではなく、釈尊を奉迎した諸国の国王たちに対しても「彼らは所詮ゴータマに騙されているだけである」と罵るようになった。
諸国の国王たちも、釈尊が毎回「私自分然るべき時は分かっています」と語られるので、釈尊が神通を示現して、外道たちを打ち負かして下さる時は近いうちに必ず来るのでそれを実際に見学したいと思い、釈尊とその教団の足取りを後、自国の王族や兵卒を率いて押し寄せてきて、最終的にはコーサラ国シュラーヴァスティには各国王が兵士たちだけでも五十万人ほど集結することとなった。
シュラーヴァスティでも再び六師外道たちはプラセーナジット王に神通力の競技大会を開催して欲しい旨を懇願した。プラセーナジット王も事情を釈尊に相談した所、ここまで直接対決を回避したが観客だけでもかなりの人数が集結しており、さらに七日後までにより大勢の人々が集まる旨を聞き、これまで過去仏もこの地で七日間神変を示現したことがあったことを考えると、もはや然るべき時が来たとお考えになりプラセーナジット王に告げて「彼らの言うとおりに会場を準備してください」と語られたので、プラセーナジット王は、シュラーヴァスティの城から祇園精舎へ至るまでの広大な土地を神変会場として提供し、準備することとなったのである。

足下二輪相の縁起
吉祥な輻輪が荘厳している君の足裏が
諸国を行脚された大業の足跡を遺して
吉兆を興隆なさるために多く天人衆を
無量に摂取なされてきた君を礼拝する
如来の三十二相の一つに足下二輪相というものがあり、これは仏と転輪聖王の身体的な特徴のひとつであるが、通常は足の裏にあるのでじっくり見ることは出来ないが、この舎衛城神変の際に釈尊が衆人にはっきり自らの両足裏にある美しく決して見飽きることのない千幅輪相をビンビサーラ王の依頼で衆人に見せて、どのような経緯でそのような千幅輪相が足裏に出現することになったのかの由来を説いて過去世において十善を実践し、人々にも十善を実践するように奔走したことで、このような幅輪相が足の裏にできたことを説明した、本偈はこの縁起を簡潔に述べたものである。
そこで釈尊が語った内容とは、次のようなものである、数えきれない程の阿僧祇劫も昔に、この閻浮提には、施陀尼彌という大王がおり、その領土は八万四千国を支配しており、八万以上もの大都市があり、一万人の大臣を従えて、二万人の王妃がいた。しかしながらこの妃たちの誰しもが懐妊することなく、跡取りがいなかったため、大王は悲歎に暮れていたので、すべての神々と修行者たちを供養した所、大変美しい王子を授かり、大王はその王子を寵愛し、人相を占ったところ、この王子は閻浮提以外の四大洲をも支配する王になる、この王子は善業を大変好むだろう、と告げられたため、王子に「惠光」と名づけた。その後王子を皇太子となり大きくなり、父大王が崩御したので、家来たちは即位を懇願したが、この王子は頑なに固辞した。家来たちは他には皇嗣となる兄弟もいないので、何とか即位してもらえないとこの国は滅びてしまうとお願いした所、「この世間の者たちは正しくない罪深い活動をしており、死刑や斬刑などが行われており、私はそのようなことには関わりたくない。もしも君たちが国民たちがすべて十善業を行えるようにできるのならば、私は王となってもよい」と答えたので、家来たちは御意に従いすべての者が十善業道を実践すべきよう勅命として発布し、皇太子も王位を継承し、国民のすべてが十善を実践するようになった。
しかしながらこの状況に魔王は嫉妬して、王政を退廃させてしまおうという目的で、王の勅書を偽造して臣下の者たちに「以前は善を行いなさいという勅命を発布し、善業を行なったが明らかな効果は見られなかった。我々煩悩に悶えている者たちには全く効果がなかったので、これからは十不善業をやりたい放題行いなさい」という偽の勅命を記した勅書をすべての臣下の者たちへと届けさせたのである。臣下の者たちはこれを手にして非常に驚き、王がそのような命令を発せされられる訳がないはずだと訝しく思い、王に尋ねて確認してみた所、王も愕然として驚き自分がそのような命令を発していないのになぜそのようなことになってしまったのか、と訝しく思ったのである。そこで王は自らの足で諸国を訪ねて回ることとしたのである。
王が諸国を行脚することを知った魔王はそこで、王が通る道端に一人の男を化作して、燃え上がる炎の坑に落ちて、実に可哀想な悲鳴を上げさせ、王に聞こえるようにした。王はそこを通りかかりこの男に「一体何があったのだ」と聞いたところ、その者は、「私は昔人々に十善を行うように勧めたので、その果報としていまこんなにひどく苦しみを経験せざるを得なくなりました」と述べた。王は「善行を行うように促したことの結果は善果しか起こらないはずではないか、これは実におかしいことだ」と述べたが、男は「これが善業の結果です。まさに善を行うように勧めた結果がこのような苦しみを味わっているのです。」と述べたのである。そこで王は「他人が善果として幸せを既に得ている限り、いま自分が苦しみを味わっていようとも大した問題ではない。後悔すべきことではない」と述べたので、魔王はこの王が善行を普及させようとするのを邪魔するのを諦めてこの男の姿を消し去ることとなった。
その後王はすべての国を行脚して、自ら人々を十善業道へと導いて行った。その結果王が支配している領土のすべての場所で、民衆の行動・言動・思考はすべて善を志向するものとなり、民衆は王の功徳を称賛するようになり、その時に金輪と七宝を得て、四大洲すべてを支配する金輪聖王となり、千幅輪相が足裏を荘厳する者となったのである。
釈尊はこの時の父王がいまの父である浄飯王であり、一人だけ身籠った妃が、いまの母となったマハーマーヤーであり、その時の王子がいまの自分である、過去世の逸話を舎衛城に集まった者たちに紹介したのであった。

(つづく)




