
ダライ・ラマ法王猊下御製『ナーランダ十七賢請願文』

毘曇七部と二空の教義を継承なされて
婆沙 経量 唯識の学流を解明された
第二一切智と称された最勝の賢者
世親尊者の御足下に請願せん
クンケン・ジクメワンポ著『チョネ版大蔵経論疏部目録』世親菩薩伝
世親阿闍梨は、婆羅門の種族に誕生された。若い時から吉祥ナーランダー僧院で出家者となられ、声聞蔵すべてをよく学ばれていた。その上で、更に阿毘達磨の研究を深め、十八部の学説を確定し、正理の道のそのすべてを理解しようとなさり、そのためにカシミールへと赴かれ、衆賢阿闍梨に主に師事された。『大毘婆沙論』をはじめ、十八部それぞれの論書、それぞれの部派の経蔵や律蔵の異同、六師外道たちのすべての論書、思択のすべての規則などを学ばれ、それらに通暁なさり、同国において、長い年数の間、正しいものと正しくないものを判別して声聞蔵を講釈なされた。その後再び中央インドへといらっしゃる道中で盗賊や夜叉などを回避できずマガダ国へいらっしゃった。ここでもまた数年間、声聞の多くの僧衆に、それまでに完全に証解できていた法を多く教えて御滞在された。この時、無着聖者が著したた五部の地論(『瑜伽師地論』)の経帙を拝見し、理解することができなかったので、本尊に聴聞したが、納得することもできなかったので、
嗚呼 森に篭っていた無着よ
十二年間も三昧を成したのに
禅定を成し遂げずに象の背を
借りねばならぬ学説を造るとは
と述べたとも伝えられている。
この時に何らかの若干見下したような表現をされたので、兄君聖者は耳にされ、教化すべき時が来たとお考えになられることとなった。そこで一人の比丘には『無尽慧所問経』を諳じさせ、別の者には『十地経』を諳じさせ、学び終わると
「先ずは『無尽慧所問経』を誦えなさい。次に『十地経』を誦えなさい。」
と説かれて、弟の元へと遣わせた。
二人はまた夜が更けると『無尽慧所問経』を誦えたので「この大乗は因としては良いが、果はそれほどでも無いのかも知れない」と思われた。明け方に『十地経』を誦えると「因果両方とも良きものであるのに、それを損減し謗ってしまったのは大きな罪を積んでしまった。謗ってしまったので、舌を切り落とさなければならない」と思われ、包丁を探していると二人の比丘が「このことために御舌を切り落とされてどうなさるのでしょう。罪障を懺悔するための方法は兄君にはございますので、どうぞ聖者の御前へと参じて下さい。」と奏上したので、無着聖者の元へと参じることとなった。
z二人はまた夜が更けると『無尽慧所問経』を誦えたので「この大乗は因としては良いが、果はそれほどでも無いのかも知れない」と思われた。明け方に『十地経』を誦えると「因果両方とも良きものであるのに、それを損減し謗ってしまったのは大きな罪を積んでしまった。謗ってしまったので、舌を切り落とさなければならない」と思われ、包丁を探していると二人の比丘が「このことために御舌を切り落とされてどうなさるのでしょう。罪障を懺悔するための方法は兄君にはございますので、どうぞ聖者の御前へと参じて下さい。」と奏上したので、無着聖者の元へと参じることとなった。
こうして大乗法のすべてを拝見なされることとなり、御兄弟で議論をされることとなった。この時に弟君の方が知力俊敏であり、兄君の知力俊敏でもなかったが、良き応答をされたので、理由を尋ねてみたところ、「私は本尊に質問した上で答えている」と語られた。そこで弟君は「御尊顔を見せて頂けないものでしょうか」とお願いをすると「さっそく至尊に伺ってみましょう」と語って伺ってみたところ「汝は凡夫なのである。はじめ大乗を損減してしまったことから、今世で見える福分がない。しかるに積罪を浄障するため大乗経典の註釈を多く著しなさい、仏頂尊勝陀羅尼を唱えなさい。そうすれば将来見えることも可能かも知れない。」と説かれた。そこでその後は兄に対して、より一層の信頼を置くようになり、
私の兄君は龍にも等しい方である
私は燕の小鳥でしかないのである
龍の王がどんなに雨を降らせても
私が鳥の群れを率いることはない
と語るようになったのである。
弥勒の御教えを実現するために『倶舎論本頌』を著され、献上品と合わせ衆賢へと送って献本した。彼の弟子たちは「ここに〝或者〟とか〝と謂う〟等といった表現があるが、これは我々の学説を諷刺しているのではないだろうか」と述べたけれども、衆賢は「彼は造論に通じているので修辞表現なのである」と仰って甚だご満悦の様子で、それに対する註釈を経典に合致する形で著されることとなった。
暫くした後に自註を著して送ってみたところ、その時に偈頌を批判する註釈を聖言と正理とで徹底的に批判して論破していたことから、「これは彼自身の自らの手で削除させる必要がある」と仰ることとなって、反論書の類(『倶舎雹論』)をも著されて、インドへといらっしゃる支度をなされることとなったのである。世親はこのことを耳にして、衆賢阿闍梨は、毘婆沙部の学説に通暁されたお方であるので帰って頂く訳にはいかないし、彼を論破しようとすることも不必要なことであったので、スヴァヤンブートの仏塔を拝観するために出立する旨を周知させることとして、ネパールへと旅立つこととなった。
その後、阿闍梨サンガバドラ・衆賢・僧賢は、出家者の会衆を沢山同行させていらっしゃり、赤色の袈裟の光明の威儀を放ちながら来迎なさり、そのままナーランダー僧院で示寂なされた。世親阿闍梨の方はネパール国へと到着なされたが、フドドゥという名の者が、出家者の衣を着ているのに戒体護持することもなく酒瓶を担いでいたのを目にされることとなり、「もはや教法は滅してしまった」と落胆なされた。仏頂尊勝陀羅尼を逆順に唱えそのまま亡くなられてしまい、供養塔が建立されたが、これいまも現存していると伝えられている。
この阿闍梨はまた、過去世にて五百代パンディタとなられており、十万頌よりなる九十九経を諳じて受持なされていたので、生来その智慧は「神々の最高の宝たるもの」(ヴァス・世)を具足され、慈心により教説を興隆なされたので、衆生たちの「親類」(バンドゥ)となられたのである。
智者のなかでも世間最勝の方
第二の仏陀と語られるこの方
衆生の正当な親族たる方
世親と呼ばれるこの方が造られた
と説かれているのであり、『瑜伽行地解説』(DT4043)では、
無着聖者という牟尼の如意樹自体から
生み出された言葉の枝に咲く文字の華鬘
恵雨の智慧蔵 瑞福をお持ちの方
彼の弟君 吉祥なる君を礼拝せん
と讃嘆されている。この阿闍梨は『阿毘達磨倶舎論本頌』・『同釈』、『無尽慧所問経』および『十地経』二経に対する註釈書、八編の論(プラカラナ)等、多くの論書を造りになられている。
世親菩薩の著作と八部論書(prakaraṇa)
世親菩薩の著作として最も有名なものは、『阿毘達磨倶舎論』であり、これを本頌と釈(自注)を五大聖典としてチベットの仏教では必須科目として学んでいる。学僧たちは、『阿毘達磨倶舎論本頌』はすべて暗誦しなくてはならず、現在のデプン・ゴマン学堂では、世親の『阿毘達磨倶舎論』と無着の『阿毘達磨集論』の二つを阿毘達磨学として2年間学び、後のゲルク派共通試験の必須科目のひとつでもある。毘婆沙部と経量部聖典随順派の学説を学んでいる。
世親菩薩の著作のうち唯識派の学説に関するものは、チベットの伝承で「弥勒二十法類」(བྱམས་པ་དང་འབྲེལ་བའི་ཆོས་ཉི་ཤུ།)の一部「八部論書」として以下のものが一般には学ばれている。漢訳では真諦訳もあるが、三蔵法師玄奘の訳があり、唯識派の学説を説く論書として古来親しまれている。
- 『大乗荘厳経論註』(TD4026, 大正 No.1604)
- 『中辺分別論註』(TD4027, 大正 No.1600)
- 『法法性分別論註』(TD4028, 漢訳なし)
- 『唯識二十頌・同論』(DT4056,4057, 大正 No.1590)
- 『唯識三十頌』(DT 4055, 大正 No.1586)
- 『大乗五蘊論』(DT 4059・大正 No.1612)
- 『釈軌論』(DT 4060, 4061, 漢訳なし)
- 『大乗業成就論』(DT4062, 大正 No.1609)
衆賢造の二種類の注釈と『倶舎雹論』について
ここの記述にあるような衆賢(Saṃghabhadra)による世親の『倶舎論』に対する反論書は『倶舎雹論』と呼ばれ、『阿毘達磨順正理論』(大正 No.1562)として玄奘訳が現存する。玄奘訳にはまた衆賢尊者の著作として『阿毘達磨藏顯宗論』(大正 No.1563)があり、これも現存するが、こちらはチベット大蔵経には本頌に対する注釈として収録されているものであり、ここの伝記によれば、当初世親が贈ったものに対して注釈を著したというのは、これに該当するものと思われる。
『阿毘達磨順正理論』は古くから、『倶舎雹論』と呼ばれるものであるが、三蔵法師玄奘の見聞録である『大唐西域記』(646年成立)には、その著作が十二年間にもわたるものであったことやそれを眼にした世親の反応の由縁が詳しく記されており、その伝承によれば、衆賢が亡くなった後に世親は同書を眼にしたことになる。
『大唐西域記』はチベット語にも翻訳されており、それによれば世親が衆賢の後輩であったと記されており、本伝記とは異同がある。両者は知己であり、お互いに尊敬し合っていたことはチベットの伝記ならびに本伝記ともに共通し、本伝記は『プトン仏教史』に従い、世親が阿毘達磨を極めるためにカシミールの衆賢から聴聞したことを挙げており、『道次第師資相承行状記』も同じである。衆賢の『順正理論』の見解は、後に『阿毘達磨倶舎論』の注釈者である安慧(スティラマティ)や称友(ヤショーミトラ)によって批判的に検討されており、こちらもまたチベット語訳が大蔵経には収録されており、本伝の作者の先代であるクンケン・ジャムヤンシェーパの『倶舎論考究』ではその議論が紹介されており、それに従って本伝の作者クンケン・ジクメワンポの『倶舎論』の解説書でもまた同じく紹介されている。
『大唐西域記』はチベット語にも翻訳されており、それによれば世親が衆賢の後輩であったと記されており、本伝記とは異同がある。両者は知己であり、お互いに尊敬し合っていたことはチベットの伝記ならびに本伝記ともに共通し、本伝記は『プトン仏教史』に従い、世親が阿毘達磨を極めるためにカシミールの衆賢から聴聞したことを挙げており、『道次第師資相承行状記』も同じである。衆賢の『順正理論』の見解は、後に『阿毘達磨倶舎論』の注釈者である安慧(スティラマティ)や称友(ヤショーミトラ)によって批判的に検討されており、こちらもまたチベット語訳が大蔵経には収録されており、本伝の作者の先代であるクンケン・ジャムヤンシェーパの『倶舎論考究』ではその議論が紹介されており、それに従って本伝の作者クンケン・ジクメワンポの『倶舎論』の解説書でもまた同じく紹介されている。
世親菩薩の供養塔

読書会のご案内
本翻訳は弊会で行っているチベット語仏教文献読書会の成果の一部です。読書会ではダライ・ラマ法王猊下のご著作のナーランダー僧院の諸賢に対する請願文をチベットの伝統的な大乗仏教の歴史観とともに自主的に学んでいます。次回(2026年2月25日)はアールヤ・ビムクティセーナとハリバドラの伝記を読みます。
チベット語仏教文献読書会へのご参加はこちらから




