2024.03.13
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

甘い果実を実らせるため

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第52回
訳・文:野村正次郎

学ぶ時に気が散ってしまう人は

賢者になりたい希望は叶わない

花が霜で凍ってしまうのなら

その樹の果実は期待できない

53

きちんと学ばないで学んだ結果を得られると願うことは、無意味である。誰でも最初は分からないし出来ないのは当然であり、きちんと学ばなければ結果を享受できることはない。

きちんと学ぶ、ということはそんなに簡単ではない。きちんと学ぶということは学ぶべきことを学ぶということであり、学ぶべきではない別のことを学ぶことではないし、学ぼうとしないのに何か学んだ成果を期待することではない。また学ぶのには才能が必要で、才能がないので、自分は学んでも出来るようにはならない、と自分の能力を卑下したりすることではない。やるべきことではないことをすること、やる能力がないと自分の能力を卑下すること、これからきちんと学ぼうとするが、いまは別のことをやっておきたいと思うこと、これらはすべて仏教では「懈怠」と呼ばれる感情である。

懈怠は「精進」の反対概念であり、過度な自己愛から発生する所謂「怠け心」である。怠けるということは、学ぶことを根本から阻害するものであり、本偈ではこれを霜の被害にあっってしまった桃の樹から美味しく甘い果実を収穫することを期待することが無意味である、という凍霜害の例に喩えている。戒・定・慧という三学のうち、精神の継続的な集中状態、専心状態がなければ、物事を正しく分析して洞察する智慧が生まれることはないし、その智慧が生まれない限り正しく幸せも実現できないし、ましてや解脱や一切相智の境位を実現することなど出来やしない。精神を散乱させることなく、心の均衡状態を保ったまま、ひとつひとつの事柄に集中して、継続的に学んでいくことによって、ひとつひとつの事柄をひとつひとつマスター出来るのである。禅定波羅蜜・智慧波羅蜜の前に精進波羅蜜が説かれているのはこのようなことに因っているのである。

また仏教を学ぶ上で重要なことは、「死ぬ気」で学ぶということであろう。仏教をただ単なるインドで起こった人類の伝統宗教のひとつであるとか、仏教を学んで生活の糧を得たい、名誉を得たい、周りの人に褒められたい、周りの人から馬鹿にされたくない、といった動機で仏教を学んでも何も意味はない。何故ならば、仏教を学んで育てるべきものは、私たちの心のなかにあるのであり、この私たちの心を死後も崩壊させないために学ぶものが仏教であるからである。釈尊自身も釈迦族の王子として生を受け、すべての名誉と財産を持ち合わせていたが、そのすべてを投げ棄てて修行者となって修行して成道されているのであり、自己愛とその延長線上にある物質的な欲望すら捨てることが出来ないのなら、来世に天人へと転生することも、一切衆生を苦しみから解放するために仏になることなど到底出来やしないのである。どこかの天満宮にでもいって合格祈願をしたからといって試験に合格する訳でもないし、社会や家族が子供たちにいくら勉強しなさい、と諭しても本人がやる気を起こして努力しない限り、成績があがることも決してないのと同様なのである。

幸いなことに私たちは決してひとりで自学自習しなくてはならない、ということではない。「死ぬ気」になる、というのも、身体や精神を自虐的に痛めつけて眼球から血がでるまで毎日経典を暗記して読みなさいとか、死ぬまでにこれだけは学んでおかなくてはならない、という何か規則のようなものがある訳ではない。何かを学ぼうとする時には、私たちよりも先にそれを私たちよりも学んでくださっている先輩や一緒に学んでいこうとする仲間もいる。特に肉体を酷使しないといけないような運動を学ぶ訳ではないので、年齢的に若い時じゃないと学ぶことができないといったものではない。仏教を死ぬ気で学ぶ、というのは、たとえ今生で学びきれないことがあっても、何度もまた人間に生まれ変わり、仏の境地をいつか実現すればよいのである。焦って気が散ってしまうより、心穏やかに静かにのんびりと学んでいくもの、それが仏教というこの悠久の時間軸にあるものなのである。人身受け難し、仏法逢い難し、と言われているが、この順序は決して逆ではない。時間と環境にゆとりのある境地を将来的にも再現できる限り、私たちは仏法というこの人身よりも貴重な価値のあるものを学んでいくことができるのである。

来週から再びゴペル・リンポチェがインドから私たちに仏教を教えてくださる。先日インドに帰国される前に「仏教というのは仏になるまで学ぶものですよ」と語ってくださっていた。ダライ・ラマ法王猊下も日本に来られるたびに「まずは仏典を学びましょう」といつも教えてくださっていた。ダライ・ラマ法王猊下が説かれるように仏典とは、私たちにとって教科書である。教科書は本棚のなかや仏壇に飾っているだけでは私たちの学習が進展することはない。教科書を写して、大切なところを暗記して、日々それを朗読し、そこに書かれていることが一体どういうことなのかを考え、教科書を開かなくてもその内容を想起できるようになってはじめてひとつひとつの教科書をマスターできるようになるのは、誰しもが経験してきたことであろう。私たちがひとつひとつを学んでいく、ということはそういうことなのであり、やるべきことを少なくして、現在の環境にすべてが足りていることを理解し、学友たちとともに、この心を無限の発展への道程へと向けていくことこそが、それが甘い果実を将来的に実らせて、その甘味をすべての生物で共有できるようになるための唯一の近道ではないだろうか。

霜の被害を回避すれば甘い桃の果実は期待できる
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