2022.11.16
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

布施と布施の功徳を正しく理解する

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第17回
訳・文:野村正次郎

ちいさなニヤグローダの種も成長して

枝葉を拡げて大きな木蔭をつくりだす

ひとかけらの食べものを施すだけでも

その結果 転輪聖王となれるのである

17

善業であれ、悪業であれ、どんなにちいさなことであっても、それは大いなる幸福や不幸をつくりだすことができるものである。たとえばニヤグローダ、すなわち菩提樹の種は小さくとも、育っていくと大きな木影をつくりだすことができる。これと同様に、ほんの僅かの食べ物を食べ物に困っている小鳥や小さな虫に施してやることで、私たちはその善業の結果としてすべて世界の王である転輪聖王の位を実現することが出来る。本偈はこう説いている。

「布施によって未来の享受がある、持戒により美しい身体を得ることができる」ということばは釈尊が布施を勧める時に説かれている有名な言葉であるが、同時にこの言葉は現実世界で私たちが実際に確認することは極めて難しいので、聖言量と呼び、信じるに足りる人物のことばは、現実に基づいているものではないが、正しい推理のひとつとして数えることができるという説をディグナーガやダルマキールティが説いているが、この言葉を理解するためにはまずは「布施」とは何か、ということを理解しなければならない。以下ジェ・ツォンカパの『菩提道次第論』にもとづいて確認しておこう。

「布施」とは、贈与したいという善なる意思のことであり、その贈与の意思をもちながら行う行動や言動を行なっている時の意思もまた布施であるが、贈与行為や言動そのものは布施ではないことには注意が必要である。というのも、多くの者が「施しをすることが布施である」と思っているが、それ布施ではなく、「施しをしたいという思いそのものが布施である」からである。

布施の成立要件には、贈与意思があるだけで十分なのであって、贈与行為により、他者の困窮状態が解消されること、贈与行為によって物件の所有権の移転、すなわち贈与行為の行使が必要ではない。

たとえば、贈与意思があって、贈与行為を行うとして贈与の対象となる物件を贈与の対象となる他者へと所有権の移転をしようとしていた時、途中で「やっぱりこれをあの人にあげるのはちょっともったいないな」と思ってしまった場合、たとえ物件の贈与行為が最後まで無事に行われたとしても、途中から贈与意思がなくなってしまっているので、その贈与意思に翻意が起こるまでの間は「布施を行じている」とは言えるが、贈与に物惜しみしだしたその時点からは善業である「布施を行じている」のではなく、悪業である「慳貪(ケチケチした気持ち)を行じている」ことになってしまうのである。

もしも「布施」とは「与えること」であるとすれば、つまり贈与行為が「布施」であるとするのならば、物件を贈与したいという意思のみあるが、実際にそのものを与えていない場合、つまり贈与行為の行使が行われていない場合には、「布施」は成立しないということになる。この場合にはさまざまな不具合が生じてしまうことになる。たとえば贈与行為には、贈与の対象者である他者が必ずあり、贈与の対象者がいない場合には、布施は成立しないということになってしまう。その場合には、たとえ自分の生命を他者へ贈与してもいい、贈与したい、という気持ちを持っていても、誰かに殺されるまで「布施を行じている」ということにはならないことになってします。また贈与行為によって物件の譲渡が行われたとしても、贈与対象者にとって満足する結果、つまり物件による満足感たる快楽を得るという状態が実現していない場合には、善果(楽)が起きていない、ということになるのでその原因となる、布施(善因)が実行されていない、ということになってしまう。

このように「布施」の成立要件は、単なる意思ではなく、実際の行為や言動、さらには贈与の対象者の精神的満足が必要であるとするのならば、様々な矛盾が起こってしまい、一切衆生は無限に存在し続けているので、菩薩や如来が布施を究竟することも有り得ないということになってしまう。何故ならば、菩薩や如来は布施を究竟した「布施波羅蜜」ということを実現していなければならないが、それに贈与行為が必要である限り、無制限に所有できている物件を常に無制限に贈与行為し続けていく必要があり、贈与行為の対象者も無制限に存在しつづけるので、いつまで経っても布施の完成状態である「布施波羅蜜」という精神状態も実現できないことになってしまうからである。

このように布施とは何か、ということを理解するためには、それは贈与意思であり、それは善意であるということを正確に理解しておく必要がある。

それではそのような贈与意思が譲渡の対象とする物件としては、如何なるものがあるのか、といえば、贈与対象となる物件は、自分が自己の所有権を認知しているものすべてのものである、ということになる。具体的には自分の身体・生命、それ以外の所有物や善根のそのすべてである。これらの物件を他者へと贈与したいという意思をもつだけではなく、この物件を贈与し、その行為によって得るすべての福徳の果もまた、自己の財産ではなく、他者の財産となす、ということを通じて布施という贈与意思を完遂させ「布施波羅蜜」という状態を実現していくことができるようになる。

同様に、布施の修習、実践とは、贈与行為ではなく、贈与意思を途切れなく自己の心に意識的に生起させることであり、実際に自分の身体や生命を他者へ切り刻んで贈与しなくても、自己の所有権を認知している物件のすべてを贈与する意思を途絶えなく起こし、その決意を固めていくことにほかならない。実際に自分の身体や生命を他者に所有権を移転する場合に、贈与意思が固まっていなく、心変わりしてしまう場合には、これは慳貪の仕業であり、布施を修習していないことの証左にほかならない。しかるに慳貪の念を退けることがまずは布施の修習の第一歩であり、慳貪を退けることが出来るようにするだけではなく、自己の身体・生命を含む一切の所有物を他者に積極的に贈与したいという意思を固めていかなくてはならない。

このためには自己の所有意思を完全に捨てていく必要があり、自分が享受しているすべてのものが、これは自分のものである、という意識を捨て、どんな時でも、他者のものであると理解していなくてはならない。すなわち、自分が何かを享受している場合でも、その享受している対象物は自己の所有物件ではない、という明確な意識をもっている必要があり、他者のために存在している他者の所有物を自分が一時的に預かっている、という意識を継続的に保っていなければならない。

私たち人間は通常は自分と自分のもののために生きている。自分と自分のものが増加するために、煩悩を起こし、自分と自分の価値が他者から下げられることを厭い、それによって怒り、恨み、暴力を行使したりする。菩薩たちはこの我執と我所執にまみれている私たちとはちょうど逆に考えているのであり、自分や自分のものは何もないと考え、この身体、この生命、この身の回りのすべてのものは他人のものであると考えている。だからこそ自分の肉体が切り刻まれようとも、決して苦痛には感じないのであり、肉体が刻まれていくたびに他者へこのものを返却できることを喜びとし、他者のや役にたてることで、大いなる歓喜が生じ、決してその意思や感情が動揺し翻意することはない。だからこそ、この菩薩の意思は堅固であるから「地」と呼ばれ、この菩薩の布施波羅蜜を究竟した境地のことを「歓喜地」と呼ぶのである。いまの私たちには菩薩ほどのことは何もできなくても、すくなくとも小さなひとかけらの食べ物でも、道端で囀り合っている小鳥や虫に与えて彼らに役立ったらいいなと思うことはできる。そのほんの小さなやさしさや気持ちが私たちを転輪聖王の位を実現していくのである。きっかけとなる小さな種子がたとえ粗末で小さくともいい。それが何を目指しているのか、ということが重要である、ということをこの布施にまつわる一偈は教えてくれている。

小さなことから菩薩としての第一歩を歩き始めることができる


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