2022.09.25
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

三帰依という知性の大木に

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第13回
訳・文:野村正次郎

三宝に帰依しているなら

生存と寂静の破滅はない

大木に登っているならば

猛獣でも手出しできない

13

心から仏法僧の三宝に帰依しているのかどうかは、私たちが「仏教徒」なのかどうかを分ける基準である。伝統的に仏教文化が残っている日本のような国では、自分たちは仏教徒であると思っており「仏に帰依します、法に帰依します、僧に帰依します」といった文章を唱えたことある人の方も多く、何となく他の宗教には帰依していなかったり、特に宗教に興味がなかったりしても、何となく家の墓地などもあるので、自分は仏教徒の家庭に生まれ、「仏教徒」として誰か家族がなくなったら葬儀などを行なう責任があり、老後のことや自分の死後のことを考えると、仏教と多少なりとも関わった生活をしているので、自分のことを「仏教徒」であると思っている人も少なくはない。

しかし「仏教徒」と言えるためには、「仏法僧の三宝に帰依している」ということが必須条件であるので、きちんと仏法僧の三宝に帰依していない、あるいはできていない場合には所謂「自称・仏教徒」というだけであり、本当の「仏教徒」とは言えない。「仏法僧の三宝に帰依している」という場合も同じであり、ただ口で「仏に帰依します、法に帰依します、僧に帰依します」で日常的に唱えているだけや、何となく仏教がいいと思っているだけでは「三宝に帰依している」とは言えない。しかるに偽物の仏教徒にならないために、何故三宝に帰依するのか、その帰依する対象である三宝とは何か、それに帰依するというのは一体どういうことなのか、ということをここで再確認しておこう。

まず何故帰依するのか、といえば、この輪廻に生まれてきてあらゆる苦しみを享受しているからである。その苦しみのなかでも最も身近なものが「死」であり、まず死の恐怖を克服するために恐怖や危険を回避するための場へ救いを求めることが、帰依ということになる。更に死だけではなく、ありとあらゆる輪廻の境涯へと煩悩と業に支配されたまま転生し、身体と精神をもって生まれてくることそれ自体が苦しみであり、その苦しみから完全に解放された解脱の境地を求めることから帰依するのである。さらには、自分だけが解脱して寂静涅槃という境地を実現しても、自分と同じように苦しみを享受している一切衆生のためには何もできないので、衆生済度のために、一切相智という仏の境地を実現しなくてはならないので、三宝に帰依しなくてはならない。三宝に対して帰依すべき理由はこの三つであり、死後、悪趣へと転生することから解放されるため、輪廻から解脱するため、仏の境地を実現するため、という志の大小の三つの理由がある。これが三宝へ帰依すべき理由である。

では三宝に帰依する、ということはどういうことか、というと、一般的に様々な恐怖や困難から逃れるためだけであるのなら、如来や菩薩たちの利他行を頼りにして、自分たちがそれらの恐怖から救ってもらう、ということを期待して信じているだけで充分である。如来や菩薩たちの慈悲心が途切れることはないし、私たちがどこにいようとも彼らの慈悲による活動は、私たちを様々に守護してくれている。しかしながら、それだけでは解脱することはできないのであり、輪廻から解放された解脱の境地を実現するためには、三宝のどれかではなく、三宝すべてに帰依しなくてはならない。これはちょうど重篤症状の病気の治療のためには、医師・治療・看護師の三つが揃っていなければならない。重病から完治するためには、診療をしてくれ、治療方針を決定し、処方をしてくれる医師が必要であり、投薬すべき薬品であったり、外科的手術であったり、各種の治療が必要であり、自分たちの治療のために、さまざまな支援をしてくれる看護師がいなければ、定期的な投薬や医師への病状報告などもできなくなってしまうのと同じである。これと同じように煩悩による転生という重病から完治するために、病状を診断してくれ、治療方針や処方を示してくれる医師に相当する仏が必要であり、その治療や処方や投薬といった処方そのものである法が必要であり、点滴や手術後の回復室などで看護してくれるのと同じように我々の治療のための補助をおこなってくれる僧が必要となる。しかるに三宝に帰依するという場合にも、三宝のうちのどれかではなく、三宝のすべてを正しく知り、それを信頼し、それが救いであることを確信した上で三宝のすべてに帰依しなくてはならないのである。

それではどのように三宝に帰依する気持ちを育むのか、といえば、これには三宝のそれぞれがもつ功徳をきちんと理解すること、三宝のそれぞれの違いを知ること、その三宝が帰依処、すなわち救いの拠り所と知ること、三宝以外の代替の救済手段を求めないこと、という四つのことが必要となる。

まず三宝それぞれの功徳のうちの仏の功徳とは、身・口・意・活動の功徳があり、仏の身体的な功徳としては、三十二相八十種好の功徳がある。仏の言語的な功徳とは、世界のどこにいる衆生たちが同時に如来に質問しても、その解答をそれぞれの衆生たちに同時に教えることができ、すべての異なる言語を保有する衆生たちに必要な言語で同時に発言し続けることができる、という妙なる如来の獅子吼の言語のもつ特性のことである。仏の意業の功徳、すなわち如来たちの精神的な勝れた特性とは、すべての知ろうとする対象をありのままにある限り、掌のなかの小さな果実のように明瞭に知ることができる知性の究極の状態である智慧を保有し、同時に煩悩によって悶え苦しんでいる衆生たちの苦しみを察知して、その苦しみのすべてから解放せんとする大悲心が途切れることなく、如来たちには起こり続けている慈悲を保有していることにある。さらにこれらの身口意の功徳によって、如来たちも行動・言動・思考の三つの仏業をなされているが、その活動は常に一切衆生たちを利益するためだけに行われており、決して途絶えることなく、任運自在に成就していることにその特性がある。異乗の仏のもつ身口意業の特性を知ることは、顕教・密教すべての仏教を知ることそのものであり、これについては聞法を繰り返していくことにより、詳しく理解することができるようになる。

次の法宝の功徳とは如何なるものか、といえば、仏が説く法とは、ことばと思想との二つより成るものであるが、一切の苦しみを超越した滅諦の境地とそれを実現するための手段である無我を現観する道諦との二つであり、この法宝こそが、三宝のうちの真の救済であり、仏の教えそのものである。私たちが「仏教徒」であらんとする限り、「仏教」というものが、この滅諦や道諦である、として理解できていなければ、それが煩悩からの解放状態であり、煩悩を超克した状態であり、これが死や輪廻をはじめとするあらゆる破滅を回避した状態である、として明確に意識できる必要がある。

それでは僧宝の功徳とは如何なるものか、といえば、僧宝とは知性と解脱との二つの功徳を具備した真実を現観して聖者位を実現した、三乗の見道・修道・無学道の出世間の聖者たちのことであり、彼らは我々凡夫のように業と煩悩によって輪廻に転生することはなく、祈願と必要性によって輪廻へと身体を自発的に受け、衆生済度のために決して疲れることなく活動し、私たちが煩悩に悶えていることから快復するためのありとあらゆる活動をおこなってくれている存在である。

以上が三宝とは何かということであるが、この三宝のうち、法宝や僧法は、見道・修道の有学の声聞・独覚・菩薩の心相続のなかにもあり、それは道を完全に究竟させてはないけれども、凡夫から見たら道を究竟した状態に見えることから、それらも三宝ということができ、それらは「世俗の三宝・帰依処」と呼ばれる聖者位にあるものである。これに対して無学道に達しているものは、これらの功徳を実現しているので「勝義の三宝・帰依処」と呼ばれる。

以上のように三宝とは何かということを学び、その上でそれぞれのもつ様々な功徳の違いを学ぶことで、三宝こそが救いの拠り所である、ということがわかり、仏宝は救済の教示者、涅槃たる法宝は救済そのもの、僧宝は救済を私たちが自分の心に実現するための支援者であると思い、帰依処の特性を理解して個別的に認識でき、それに対して明確に弁別できる知性が起こった時点で、それを帰依の本体といい、これは特殊な知性のひとつであり、この知性こそが我々をあらゆる心の煩悶から守ってくれるのであり、あらゆる修行の基盤となる精神状態となることができるのである。

三宝に帰依することは仏道を志すすべての者の心の拠り所であり、これらは死後、最終的に菩提に至るまで帰依しなくてはならないものである。仏典を学んだことがない人が、三宝を正しいものであると篤く信仰し、苦しみや悲しみや幸せを感じる時にこの三宝が寄る辺なき衆生たちを常に慈悲のやさしい眼差して見つめており、我々に働きかけてくれている、と思うことは、帰依のひとつの形であるとは言えるが、あくまでも知性の低い者たちの帰依にすぎない。

下士の場合は死の無常を理解し、悪趣の苦しみを思い、有暇具足の人身を仏になるまで享受し続けることができるよう三宝に帰依すべきであり、中士の場合には、輪廻における反映に対する嫌悪感を正しく持ち、輪廻からの解脱を目指す出離心を起こして、戒定慧の三学を正しく学ぶための拠り所として三宝に帰依すべきであり、上士や大乗の仏教者は、一切衆生をすべての苦しみから解放することを自分自身ができるよう、智慧の究極の状態である一切相智を目指して菩薩行を修習するための心の拠り所として三宝に帰依すべきであり、特に大乗仏教徒であるためには、このいまの私たちの精神が究極まで発展して、勝義三宝そのものとなった仏位にある果位の三宝である仏法僧こそが、一切衆生を救済するために必要なものであると明確に意識できなくてはならない。また密教の行者たちの場合には、果位の三宝に帰依するだけで満足すべきではなく、本尊として生起する我慢を道へと転嫁し、有相瑜伽・無相瑜伽を行じ、生起次第や究竟次第を修習し、如来と眷属を含めた曼荼羅世界の実現に励まなければならない。仏道修行には三宝帰依の含まれないものは何一つないと言われており、三宝に対する帰依はあらゆる修行の土台であり、すべての仏教に関わる者たちの基礎であり、すべての幸福の源泉にほかならない。本偈では、三宝に正しく帰依することができている者は、大木に登ったか弱い動物のように、どんな恐ろしい猛獣でも攻撃できない、と説いている。

本偈の作者であるグンタン・リンポチェは、『教説入門・帰依指南書・利益賢道灯明』という帰依に記した小品を残しているが、本記事はその説明を要約して訳語を多少補いつつ訳出したものである。本日はチベット暦の七月三十日で夏安居の最終日である。デプン大僧院では布薩が行われ、その後三日間の自恣の休日がはじまる。布薩・安居・自恣という三つの根本儀軌が継続して行われ、三宝に心より帰依し解脱と一切智を目指して日々精進している具足戒を保有する沙門衆の活動は、教義上は「世俗の帰依処」でもなく、単なる「表現上の帰依処」ではあるが、無我の思想と非暴力主義を貫いている志の人々がいる限り、仏教徒にとってはこの世界には救済がある。三帰依というこの知性は、この世界の究極の救済とは何か、ということの明確な意識化であり、その意識は私たち個人ひとりひとりの心のなかにのみ育まれていく極めて私的な精神的営みであることだけは確かであろう。

礼拝は帰依心の表明のひとつである

RELATED POSTS