2022.09.15
ལེགས་པར་བཤད་པ་ཤིང་གི་བསྟན་བཅོས།

疲れない処刑人の処刑を待っているということ

グンタン・リンポチェ『樹の教え』を読む・第11回
訳・文:野村正次郎

木を切り倒して切り分けて小刻みにする

木樵の人たちでさえすぐに疲れてしまう

そんな仕事を何劫も続けているのに

地獄の処刑人が疲れることなどはない

11

私たちがここで死んでゆき、地獄や餓鬼や畜生へ生まれてしまうのならば、自分たちが現在行なってきている罪業の積み重ねによって強烈な悪趣の苦しみだけを味わって生き続けていかなければならない。その最も代表的な境涯が地獄の衆生に生まれてしまう場合である。

木樵は樹を切ることを仕事としているが、一本の樹を切り倒して伐採し、それをある程度の長さに分割して、さらに小刻みにして加工し、最終的な木材の状態を作り出すだけでも大変な仕事である。樹木の伐採を行う時には、その木のサイズに応じた知識と体力が必要になる。大きな木になると重機を使用しないと切り倒すことができないし、伐採作業・処分用に分割する作業・抜根作業・分割後の加工など専門性が必要な仕事である。昔は斧や鋸を使って木を切り倒す作業を行なっていたが、最近はチェーンソーで行うようになっているが、このチェーンソーの使い方も手が滑ると指を切り落としてしまうこともあり、そんなに簡単ではない。ひとりで伐採できる樹もあるが、数人で伐採しなければいけない樹もあり、それを分割して運搬しやすくし、さらに小さく切って加工して、使いやすい状態に木材を加工するまでの工程をすべてひとりでやってみると、森林で一本の樹を切り出して一枚の板をつくるまでに大変な苦労と専門知識が必要となるのである。林業や木工業などに従事するためには、専門知識が必要なのはもちろんであるが、体力や持久力、そして適度に体力を回復するための休息が必要となる。熟練職人は手際がいいが、やはり人間なので疲労感がないという訳ではない。

地獄の処刑人もまたこれと同じような存在であるが、木樵のように疲れることはない、というところがポイントである。彼らには休息は全く必要ない。私たちが歩こうとすれば、大きな刃物で手足を真二つに切り、私たちが歩けなくする。歩けなくするだけではなく、地面に倒れるとすぐに私たちの全身の手足や胴体などをバラバラに分割する。さらにそれを小さく切り刻み、ミンチにしたり、ぶつ切りにしたりして、高温の油の入った鍋などに煮やすい状態に加工する。

地獄の処刑人は処刑の専門家であり、地獄の処刑は、苦痛を与える目的で行うものであるので、私たちの手足を切り刻む時も、あえて我々に苦痛や恐怖が起こるような方法で私たちの手足や指を切り刻み、生皮を少しずつ剥がしてゆき、我々が気絶するならば、すぐに意識を回復するような方法をとって、出来るだけ私たちが苦痛を強く感じるようにする。彼らは疲れないので効率良い作業はしないし、効率良く作業することは、私たちの苦痛が短時間しか持続しないので、なるべく強い痛みがなるべく長く続くような方法を選択する。そしてそのための専門知識をもっているのである。地獄の衆生に生まれた場合には、寿命が非常にながいので、なかなか死ぬことはできないし、死にそうなのでやめてくれといっても、決して処刑人たちが手加減してくれることなどはないのである。地獄は悪趣の代表例であり、苦しみが大きく、苦しみが多い境涯に従ってその衆生の人口は増加するという原則がある。

しかるに私たちの来世で最も転生する可能性が高い境涯が地獄ということになり、地獄に生まれ後になって、あの時こうしておいた方がいいと思っても仕方がないし、地獄の処刑人に免罪をもとめてもはや手遅れである。地獄の処刑人たちの仕事はあまりよいものではないが、それよりも自業自得で地獄へと生まれてきた者たちの方が深刻な罪状や問題を抱えていたのである。いまはそんな悪趣に生まれている訳でないし、いまのうちに悪趣に生まれないようにするための対策がある。いまのこの我々の時はまずは処刑を猶予してもらえている執行猶予期間にほかならない。

地獄で私たちは材木になるために切り刻まれるのではなく、痛みを感じるために切り刻まれる


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