菩提を行じる時にはどんな所化をも
清浄学処で自制する出家へと導かん
彼らに必要な日用品があるのならば
思うだけですべてが得られるように
これから先如何なる生を受けるとも
この身口意で為せるすべての活動は
無限の衆生のための利益の源となり
すべてが彼らのためにならんことを
愛する息子を失った母親のように
深い傷を負っていつも悶えている
彼らのすべてに常に心を尽くして
自己の所有物のすべてを捧げたい
一切衆生のために菩提心を起こした菩薩が、菩薩行をこれから行じていきたい、という願いには、まずはそれを願う限り、他者を利するようになれるためには、まずは自分を正しく律しなくてはならず、そのために菩薩としての正しい自制心をもち、菩薩行を自らきちんと実践していこう、という決意がここまででは述べられていたが、ここでの三つの詩頌は、自分で菩薩行を実践でき、ひとつひとつの課題を自分が遂行できた時、その善業が衆生たちを利するものであるように、そしてこの衆生済度の活動がすべて一切衆生を利するものにとなるように、という祈願を表現するものである。
ここの三偈では、菩薩行を実践して、仏や菩薩聖者となることができた時には、まずは釈尊の善なる意志の伝統へと生涯を捧げている出家者を増やしていくことができるように、そしてその梵行の出家者たちが修行に専念できることができるように、と願うものである。仏教の伝統が続いて、より多くの修行者が仏位を成就して、その利益が一切衆生により多く齎されるためには、出家者の数が増えて、戒体を護持して、自らを律しながら修行に専念できる環境が保持されることが不可欠である。何故ならば出家者が破戒しなければならない社会環境では、無限の衆生を済度できる如来を多く輩出することなどできないし、如来を多く輩出することができない限り、正しく衆生を導くことができないので、結果的に衆生は苦しみの淵から救われる機会も必然的に少なくなるからである。
それではそのような出家者たちが問題なく修行に専念できる環境を維持するためには、まずは私たちひとりひとりの大乗の教えを封じる者たちが、自分たちの行動、自分たちの言動、自分たちの思考のそのすべてをかけて、その如何なるちいさな善業ですら、無限にいるこの生きとしいけるものたちが幸せを享受できる原因となるようなものへと変えていかなければならない。私たちの日常のほんの小さな行動が、衆生たちを決して傷つけることなく、彼らの役にたつようなものとなることができるのであり、私たちが意識的に自分の行動や言動や思考に責任感をもち、すべての営みが衆生たちに役立つものとなるように、という志を忘れないで、意識的、かつ積極的に活動することによって、その善なる意志は自然に周囲に善なる影響を与え、悪業や苦悩や暴力の連鎖ではなく、善業と安楽と慈悲の連鎖を生み出していくことができる。そして私たちが常に他の衆生に何らかの影響を与えることができるのは確実なことであり、菩薩たらんとする者は、常にすべての衆生に如何なる活動であれ、それが善き影響を与えることができるものとならんことを願いながら活動することが望ましい。
私たちの周囲にいるこのすべての衆生は、自分の愛する子供を失い、その気持ちとどう向き合い、折り合いをつけたらいいかも分からない、悲劇の渦中にいる母親のような存在である。いつもありとあらゆる苦しみや痛みを負いながら、それをどう乗り越えたらよいのかも分からない。因果応報の考え方すら知らないし、道に迷ったまま暗闇を生きており、もっとも大切な自分と自分の延長線上にあるものが失われていくことに耐えられない。死なない生き物はいないし、病気にならない生き物もいないし、老いていかない生き物などいない。人間であろうとも、神々であろうとも、動物であろうとも、餓鬼や地獄の衆生であろうともこれはすべてみな同じ状況にある。すべてのものは滅んでゆくのであり、私たちの持ち物のうちのもっと大切にしているこの生命さえ、しばらくすればすぐに無常の風に晒されて、私たちの自由にできるような私たちの所有物ではなくなるのである。生命であれ、若さであれ、物であれ、すべては過ぎ去っていく存在であり、この絶対的な無常の流れを堰き止めて、時間を逆流させることなど、決してできないものである。そしてこのことにすべてのものたちが苦しみ、涙し、慟哭をあげている。私たちが周りのそのような苦しみの淵にいるものたちにできることは、少なくとも自分の持ち物を彼らが使ってくれて、彼らが少しでも苦しみが少なくなるようにすることくらいしかない。遅かれ早かれ自分たちの手から離れていくものであるからこそ、それをいま自分のためにと蓄えることよりも、いま苦しんでいる彼らが使って少しでも幸せになるのなら、これこそがこの上のない善業にほかならず、自分の所有物を喜んで、そして敬意をもって、苦しみの淵にある一切衆生へと与えたい、この布施の精神を究竟することこそが、菩薩の六波羅蜜の第一の布施波羅蜜の目標であり、布施は菩薩行の六波羅蜜の第一歩でもあり、同時に四摂事のひとつでもある。自己の所有物に執着している限り、布施を正しく行うこともできないし、それができない限り、我執をすべて断じて解脱智見を得て、一切衆生を利益する如来の境地を実現してゆくことなど不可能である。だからこそ、私たちはまずは、自分の所有物を所有しておきたい、と思うのではなく、それを他者に速やかに与えたい、という気持ちを深めてゆき、布施というこの意志を高めていかなくてはならない。
大変残念なことに、いま私たちは二十一世紀初頭の大混乱を目撃している。もはや戦争の時代は時代遅れであることは誰もが知ってはいるものの、いま戦争がまた始まった。伝染病、戦争、侵略、抑圧などがよくないということは誰もわかっているが、いまだこの地球上の人類はこれを克服できていない。私たちはこれが良くないことだと情報として知っていても、良くないことをしないで良いことをしようと真剣に取り組まない限り、良いことが行われていきやしない、ということをいま目撃している。遠い寒い外国の人たちが争っているのではなく、銃をもって人を殺している人たちも、殺されそうになり怒りと悲しみに怯えている人たちも、私たちと同じ幸せを望み、苦しみを望まない人たちである、ということをまずは、いま思い直してみる必要がある。この混乱を終息させるために、私たちひとりひとりができることは多くあり、それは自己よりも他者を優先する意識から導かれる無限の愛や慈悲にほかならない。他者の所有物を奪う者がいれば、自己の所有物を与える者たちもいる。苦しみや暴力や恐怖の連鎖ではなく、愛と人道的な救済の連鎖を私たちひとりひとりが少しでも作り出せるかどうか、それがいま私たちに問われていることであると思われる。
幸いUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)では、いま「ウクライナ緊急:避難を強いられる家族に人道支援が急務です」と題するキャンペーンを行なっているようである。チベットの人々も国を侵略されて難民となったが、世界中からの難民支援の恩恵もあり、ダライ・ラマ法王ならびにチベットの仏教文明は、現在も継続している。国家にできないことがあっても、私たち個人や私的な団体にはできることがたくさんある。弊会でもわずかばかりの支援をさせていただいた。みなさまも是非ご検討していただけるようお願いしたい。
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