2021.12.15
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

末流の情報ではなく、本流の原典を所依とする

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第29回
訳・文:野村正次郎

大秘密怛特羅王の数多の妙薬を調合し

集約したのが生起・究竟次第等である

それ故にこそ偉大なる原典を軽視して

口伝だけを嗜好するのは本流ではない

しかるに根本原典と釈とを合わせつつ

怛特羅の義を求めていきなさい いざ

29

仏教を学ぶということは、釈尊が私たちすべての衆生が幸福になり、苦しむことのないよう説かれた教えを学ぶということである。それは釈尊御自身のお言葉の軌跡が文字に記されたものを通じて釈尊御自身のお言葉に耳を傾けるということであり、この意識を持つことなく、有名な誰々がどう言っている、過去の先師がこうこう言っているということだけに注目していては本末転倒となる。

律蔵はもちろんのこと『般若経』『華厳経』『宝積経』をはじめとする大乗経典に残されている如来の言葉に常に触れていなければ、仏教を学ぶことから遠ざかってしまうのであり、密教においても『蘇悉地経』『大日経』『真実摂経』『秘密集会根本怛特羅』『勝楽怛特羅』『呼金剛怛特羅』などの根本怛特羅を学ぶことは、基本中の基本であり、これらの内容を解説し、補うものとして、釈尊御自身が『金剛頂経』などの釈怛特羅を説かれているのであり、同時に龍樹菩薩の『五次第』なども釈尊御自身の意図されたものを解説するものとして説かれているものである。これらの怛特羅のすべてのエッセンスを集約したものが、有相瑜伽・無相瑜伽や生起次第・究竟次第などの金剛乗の瑜伽次第にほかならないのであり、それらは所依の原典の妙薬をすべて調合し調合した、我々の煩悩の病を治療するための総合薬にほかならないのであり、この総合薬を処方されている私たちは、まずこれを大切にして服薬し、自分たちの病を治療することに努めなければならないのである。

しかしながら残念なことに、多くの人々が釈尊や龍樹などの偉大なる方々が説かれた甚深難解な原典には見向きもせず、自分に縁のある人から聞いた分かりやすい口伝や情報に拘泥してしまい、本来実践すべき本尊瑜伽や生起次第・究竟次第などを実践しようとせず、瑜伽行の休憩時間として設けられている真言念誦や礼拝供養などだけを実践して、原典や瑜伽行の加行・本行などは、一部の特殊で時間的な余裕がある人だけがやるものだと考えている場合が多い。

すべての如来の大悲心とは何か、ということを考えることがなければ、観音菩薩とは如何なる方なのか、ということも分からないし、すべての如来の智慧とはどのような智慧なのか、ということを問いかけることがなければ、文殊菩薩のことを想像することすら本来はできないものである。それにも関わらず、とりあえず観音菩薩にお祈りしておけば、何か困ったことがあれば助けてもらえるだろう、文殊菩薩にお祈りをしておけば、智慧が明晰になり、金持ちになれるだろう、といった間違った期待だけを抱いて、ひたすら真言を唱えたりして暮らしているのが実情である。

しかし、観音菩薩や文殊菩薩に何か自分の願いを叶えてください、とお祈りをしたいのならば、まずは観音菩薩や文殊菩薩のことを知らなければならない。誰かに何かを伝えたいのならば、まずはその誰かがどんな人で、どんな方法で伝えればよいのか、ということを知らなければ、その思いを伝えることなど決してできないのである。仏の慈悲のことや智慧のことを知らなければ、観音菩薩や文殊菩薩のことを知らないと同じであり、そんな状態では本尊瑜伽などもできる訳もなく、どこの誰に何を依頼しているのかも分からない独り言をぼそぼそと呟いて、自分たちの身勝手なお願いごとを叶えてもらおうというのは、随分身勝手な話なのである。しかるに釈尊が説かれた原典やその注釈を合わせて学びたいという姿勢がなければ、釈尊が説かれた幸せになるための方法を実行できる訳がないのであり、所依の原典を学ぶことなくして、ただ格好だけ真言を唱え、礼拝をしてみたところで自分の心に潜む深刻な病たる煩悩を超克することは大変困難なのである。

所依の原典やその注釈を合わせて学ぶこともなく、有相瑜伽・無相瑜伽や生起次第・究竟次第などを実践しようともせずに、ただひたすら真言を唱え、分かりやすい口伝や情報に翻弄されている状態は、ちょうど疾病を治療しなければならないときに、医学的にも十分に証明され、推奨されている治療法や予防法を無視して、自然治癒力や免疫力をアップするために、緑茶ばかり飲んでいるのとほぼ同じ状態である。また何とか師や何某教授の何とかという教えだけを重宝して、釈尊や過去の偉大なる先師たちが私たちに残してくれている原典を軽視しているのは、癌などの深刻な病気に罹患しているのに、ネットで読んだいい加減な情報をもとに、高額な水を購入し、サプリメントを大量に購入して、本来なすべき医学的にも推奨されている治療法を無視している状態に等しいのである。

もちろん高額な水や自然成分を濃縮してつめこんだサプリメントなどは効果が全くないわけではない。しかし交通事故で放ったらかした、化膿しきった足は切断しなければ寛解できない。肺炎が重症化したら、人工呼吸器をつけて体力を保存するための栄養素を補給しなければ生命を落としてしまうのであり、自分の力で呼吸もできない状態の重篤な患者に、深呼吸をさせ、森の綺麗な空気を吸うと心も体もリフレッシュできますよ、という人がいたからといって、その重篤患者を山に連れて行って森のなかに寝かせても、ただ死んでいくばかりなのである。サプリメントはあくまでも補助するものであって、そもそも自然治癒力が十分にあれば、サプリメントや医学などに頼らなくても、病気になったり、死んだりしないし、ワクチン接種をした方が、何年もかけて自分の身体能力を改造して重症患者にならないようにするよりも遥かに効果が高いのである。

釈尊が説かれた宗教は、生老病死の苦しみを克服するための対症療法にほかならず、個々の患者ごとにさまざまな症状に対応した、総合的な治療方針によってその治療法を説かれているものである。仏教を知るということは、生老病死の克服の仕方を知るということであり、大乗の教えを知るということは、すべての生きとし生けるものを利益するために一切相智の境位を如何に実現したらいいのか、というその方法を知るということである。

密教など速効性が期待される教義を実践する場合には、顕教よりもさらに複合的かつ患者に与える負荷の大きい治療を行う、ということなのであり、通常の医療と同じように誤った服薬は危険も多く、また速効性が強いため、副作用もあるだろう。この危険を十分理解した上で、治療に専念しなくてはならない。

私たちの無始以来の病魔は深刻であり、この病魔に犯されていることを自覚し、強い意志をもって寛解を目指さなくてはならない。しかるに名医である釈尊のお言葉に注意深く耳を傾け、看護師である龍樹などの祖師のアドバイスもしっかりと聞き、その上で、彼らが残してくれた原典とその注釈を繰り返し善知識から聴聞し、自らも紐解き、日々内容を吟味しながら自分の病状もできるだけ把握しながら、治療に専念することが必要である。

そのためには、まずは自分たちが重症患者であるということを理解し、高度な治療法に対する崇敬と信頼の念をもち、はやくこの心の病を克服するためには、医師の指導に従わなければならない、その指導が文字に記された原典たる根本怛特羅や釈怛特羅こそが私たちの病を治癒してくれる治療薬の根本である、という意識をもちつづけなくてはならないのである。本偈は、高度な治療法を説く秘密真言道の修行においても、根本聖典こそが救済の所依であり本流であり、そこに常に心を留めおくことが極めて重要なのであり、末流の情報に翻弄されるべきではない、ということを説いている。

無量寿如来の根本テキスト原典(ケンブリッジ大学所蔵写本)


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