2022.05.07
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

如来からいただいた手綱を手に

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第35回
訳・文:野村正次郎

駆け抜ける方へ 手綱をとるように

はじめは ひとつふたつ そしてすべてが

有の方へと逸れゆくこの心という暴れ馬を

落ち着かせて乗りこなす術となっていくように

聴聞や思索が心を変革する法となるように いざ

35

馬に乗って行きたいところに駆け抜けてゆく時には、手綱を調整しながら進んでいかなくてはいけない。走り続けてばかりいれば疲れて骨折してしまったりすることもあるし、きちんと手綱を引いて導いてやらなければ危険なところに間違って馬は進んでしまうかも知れない。だから適度に休憩をとりながら、着実にしっかりと一歩一歩進んでいくことは私たちがどう手綱を取っているのかということにかかっている。

私たちが仏法を聴聞してひとつふたつと何かを学んでゆく時も、そのひとつひとつで暴れ馬のような私たちの心をしっかりと手綱を引いて駆け抜けていこうとするところへと着実に向かっていけるようにしなくてはいけない。ちゃんとこの心という暴れ馬の手綱を引き乗りこなしていかなければ、私たちは問題や危険な方向へと向かってしまう可能性があり、その先は破滅という断崖絶壁なのである。ここでは「有」すなわち、死んで再生し、また苦しんでいくという無限の輪廻の苦海のことを表現する。

私たちの心は放っておけば我執に拘束され、煩悩に翻弄され、ふたたび輪廻へと再生していく。自分たちの心は自分たちのものなのに自由が効くことはない。そんな不自由から解き放たれた真の自由である解脱にはいまはたどり着くことができない。時には静かに心を休め、心をゆっくりとのんびりと歩かせることがあるかもしれない。そんなに急いで忙しくしては、心が馬の足のように折れてしまい再起不能となるよりはいい。しかしいつかは必ず、この解脱と一切智の街へと辿り着かなくはなならないのである。

この私たちの心という暴れ馬は、どうしようもないくらい無知で荒くれ者である。しかしながらそんな馬だけど、この私たちに別の乗り物がある訳でもない。私たちの乗り物はこの暴れ馬でしかないのであり、誰か別の馬に乗り換えることもできないし、この馬に乗らなければどこにも行けないことも確かである。だから少し憎たらしいやつかも知れないが、この暴れ馬と私たちは上手くやっていくしかない。腐れ縁といえば腐れ縁かもしれない。何せこの心とは無限の過去世からずっと一緒にだからである。だから、そろそろ諦めて、お互い気に入らないことがあろうとも、いちいちい喧嘩するのではなく、もう少し上手くやっていくようにして、一緒によい場所を目指していくべき時なのであろう。

私たちのこの心は私たちだけのものである。この心に振りまされることはなく、しっかりと手綱を引いてゆけばよい。この心を変革し、よりよい旅をするために、ひとつふたつと聴聞と思索の手綱を引いてゆけばよい。この手綱は幸いに如来からいただいたものである。こんなに素晴らしい手綱をせっかく如来からいただいたので、後は旅路を進んでいくだけである、本偈はこのことを教えている。

馬を乗りこなすモンゴルの女性 (c) Ayan Travel

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