法の根幹にあるもの それは善悪の意志である
法の門戸を開くもの それは清浄な聞法である
法へ至っていること 現象への執着を捨てること
法の核心にあるもの 方便と智慧の両立こそにある
法を法のあるがまま 如実に行じてゆきなさい いざ
本詩篇『顕教と密教の仏典の学習法の教訓・宝石の島へ行くための道標』の仏典の学習に関する教訓は本偈の次の偈は廻向偈であるので、本偈は、グンタン・リンポチェが私たちに伝えようとしている、仏教を如何に学んでゆくべきか、ということの結びのことばである。
本偈の意味することは、これまで私たちが読み進めてきた通りの内容であるが、仏法や宗教を学んでゆくそのきっかけにあるもの、そのはじまりにあるもの、それは善い志をもっているか、あるいは悪しき志をもっているのかどうかということに端緒を発している。志が善なるものであれば、仏教を学んでゆくという行為も善いものとなり、その成果も確実に善なるものとなる。これに対して宗教や仏教を現世利益のために学ぼうとし、自己愛に駆られた煩悩を増大するために学んでゆくのなら、学習の課程も、その成果も悪しきものとなってしまう。すべての行いは、その動機こそが大切なのであり、個人的な欲望を満たすといった不純な動機を捨てて、純然たる利他の精神によって仏典というものを紐解いていかなければならない。
そして仏法という八万四千の法蘊の門戸を開くもの、それは如来の言葉に触れ、如来の言葉と向き合うことにしかない。すべてのはじまりは、善知識に師事し、彼らのことばを聴聞をし、そのことばを自分たちの心の糧としてきちんと受け入れていく。これが清浄なる聞法であり、聞法が不浄なものとならないよう、『四百論』で「公正で、知性があり 探究心のある、このような聴聞者を器と呼ぶ」とあるようにすべての偏見を捨て、知性と感覚を研ぎ澄まし、この教えこそが私たちの未来を切り開くものであると追求してゆかなければならない。
さらに教えて頂いた内容が「法へと至っているか」つまり、自分の心を変革し、自分たちをよりよい人間へと進化させるためのものとして正しく受けとめているのかどうか、というこのことは、このいま私たちの眼の前にある様々な現世の現象への過度な期待や執着を捨てているのか、どうかということにかかっている。ひとつの教えを学ぶ時、私たちは眼の前の現象が、私たちが表面的に思っているその通りではないという真実を知り、私たちが忌み嫌い断じていかなければならない選択肢と、実現していかなければならない正しい選択肢を知り、それを峻別できるようになる。何が正しくて何が間違っているのか、その根拠はどこにあるのか、私たちはどういう方向性に進むべきであり、どういう方向に進むべきではないのか、これが分かるようになり、自分でもその選択肢を選んでいけるようになり、表面的な現象には踊らさられることはなく、しっかりと仏への道を歩んでいくことができるようになる。
仏法の核心にあるもの、それは仏位を実現するための手段たる「方便」である菩提心と一切法の空と無我を証解する智慧の両立にほかならない。「方便」つまり実践としてはすべての衆生を決して害することはなく、できれば役に立ちたいという完全なる非暴力主義であり、一切法無我の意味は、すべてのものが何かに依存してできあがっているという縁起の思想である。仏教の実践とは非暴力の実践にほかならず、その実践の背景にある思想とは、縁起の思想以外の何者でもない。
仏法を学んでいく場合、私たちは仏法を学ばなければならないのであり、他の何か別のことを学ぶような別の学び方があるわけではない。仏法であるからこそ、仏法らしく、それに相応しい学び方、それに相応しいあり方を私たちは追求していかなければならない。仏法の学習とは、たったひとりの個人が一生のうちの短い期間をかけて学ぶようなことではなく、過去の多くの阿羅漢たち、菩薩尊者たちが何世代もかけてすべての衆生の幸福を祈りながら学んでいるように、私たちも釈尊の弟子の数多くの諸先輩方、国を超え、人種や民族を超え、言語を超え、そして人類だけではなく、善なる方向へと向かっている神々とともに学んでいかなければならない。だからこそ、多くの阿羅漢たち、多くの菩薩尊者たちが学んでいるやり方とは別に私たちに特別で簡単ですぐに成果のでるような学び方がある訳ではなく、少なくともいまから二五〇〇年前に釈尊の言葉に触れた善知識の諸先輩方たちと同じように自らを律すること、精神が錯乱せずに知性を安定させること、正しく物事を判断する知性を研ぎ澄ませていくこと、この戒・定・慧の三学を私たちはひとりひとり身につけていかなければならないのである。仏法を仏法に相応しく如実に学んでいきなさい、これが顕密の学習法の核心にある、これがグンタン・リンポチェの結びの言葉である。
本偈にあるように私たちは自問自答していくことからはじめていければよい。私たちは仏教を学ぶ時、これが人類や生物の幸せの実現のため、という正しい動機をもてているのかどうか。これまで教わってきたこと、これから学ぼうとすること、ここで私たちは如来の弟子として正しく聴聞しようとしているのかどうか。そしてこれまで習ってきたこと、そしてこれから習おうとすること、これが私たちは死を超克するための唯一の方法として、自分たちなりに活用できているのかどうか。これまで習ってきた教え、そしてこれから学ぼうとする教えが、非暴力主義と縁起の思想の両立に根付くものであることをきちんと理解できているのかどうか。学習者として、私たちは仏教らしさ、仏法を学ぶものとして相応しい姿をしている勤勉な学生であれているのかどうか。
もちろんこうした問いかけを自分でやってみれば、できていないことだらけだろう。しかし決して自信喪失して落胆し自暴自棄になる必要はない。「慣れていけば学べないことはない」というのが仏教流の学び方である。釈尊たちも何日以内に仏になりなさい、と成仏の締め切りがある訳ではない。また仏門に一度入りさえすれば、破門になるわけでもない。生物は無限にいるし、過去に少しでも仏教に触れた経験のある動物もたくさんいる。過去の悪業のせいで、いまは仏塔や僧院の近くでゴミをあさる憎まれ者のカラスのようになっているような者もたくさんいる。人間に生まれても、仏教には見向きもしないで悪いことばかりやっている人たちもいる。しかし幸いなことに憎まれもののカラスであっても、悪いことばかりしている人たちも、いまただ仏教の学習を一時的にやめているだけ、という可能性も非常に高いのである。
如来の学校とは巨大な学校であり、たとえ多少ダメなことをして落第しそうにあっても、追放されるわけではない。少し心を改めれば、またいつでも如来という先生たちや先輩たちは私たちの面倒をみてくれる。如来の学校の卒業は、如来になって利他行を行うのは、まだまだ随分と先の話である。この如来の学校にいる限り、学生気分でいても誰かに怒られるわけではないし、この学校を卒業して社会にでて、社会の役にたてるようになるのも、まだまだ先なので、いまはとりあえずきちんと学問をしていく、ということが大切なのである。これが釈尊のつくった学校であり、この学校で学んでたとえ落第しても、弥勒如来による救済措置が待っている。だから浅はかな考えで、余計なくだらない心配をするのは、いますぐにでもやめて、少しずつでも自分を顧みながら、焦らずゆっくり着実に仏法を学んでゆくこと、これが「仏教らしさ」「釈迦牟尼如来流」なのである。本詩篇の教訓を結ぶ本偈は、私たちが一体何を何処でどう学んでいるのか、ということを改めて思い起こすことの大切さを教えている。