2022.05.10
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

宝島への参道案内として

仏典の学習法『参学への道標』を読む・最終回
訳・文:野村正次郎

甚深広大な数多の聖典という大海より

清浄なる聞法の妙宝を掬い上げるため

如何に為すべきかを説いたこの眼薬で

解脱を求めるすべての人の眼が開けて

一切相智の栄光を享受できますように

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〔奥書〕以上が『顕密の聖典を如何に学習するのかということに関する教誡・宝島への参道案内』と題するものである。概して近年では、教法が濁りきってしまっていることで、実践の必要性に関する言論すらも見失われている。ただ単に聞思の必要性を説いている言論が有るだけで、一体何を聞法しようとしなければならないのか、またどのように聞法したらよいのか、といったことを正しく理解している者が極めて希少になってしまっている。そのような理由からか、本編のようなものを執筆して欲しいという要請を以前から受け、最近でもダルハーンベイリの手紙を通じて聡明な比丘クンチョク・ドルジェ師より委嘱を受け、拙僧クンチョク・テンペー・ドンメ自身では、聞法の義を自分自身の心相続と結びつけて実践できてはいないけれども、先代ラマの尊き御名を拝受していることに甘えることなく、普通の僧侶のやり方と同じように参学に苦心した僅かばかりの自分の経験と先師方の教えの伝統に基づいて、その概要だけを記そうとしてみた。しかしいまのところ何か人に益するようなものも何も語れた訳でもなく、こんなもので何かを理解してもらうことも殆どないのだろう、と思って、やりかけのままそのまま棄ておいていた。しかしながら教法に純粋に貢献したいという強い善志と智慧をお持ちになられる尊者たる僧院座主クンチョク・ギャルツェン師より繰り返し、本編を何とか完成して欲しいという依頼を受け、ここにいま最終形として完成できた。本編が求道の諸氏にとって益するものとならんことを。

以上が本詩篇の最終偈の善の廻向偈と奥書部分である。内容は明快であるので、特に説明も必要ない。

奥書部分では、本詩篇の著作経緯が記されているが、本編は、グンタン・リンポチェ、すなわちグンタン三世クンチョク・テンペー・ドンメ(1762-1823)が、化身ラマとしてではなく、普通の一般の僧侶として、デプン・ゴマン学堂へと遊学した時に苦学した自分の経験を、先師たちの教えの伝統の通りに記してみたものが草稿となっている。最初は充分なものではないとご自身で判断して、そのまま放置していたが、ラブラン・タシキル僧院の第二十四世座主であるウェルマン二世・クンチョク・ギャルツェン(1764-1804)の委嘱に応える形で完成したようである、と記されている。ウェルマン二世はグンタンリンポチェの次々代のタシキル僧院の座主であり、第24世座主として就任した時期は、1800年からの6年間であるので、本書は二歳年下の後輩の依頼を受け、19世紀の幕開けの時期にラブラン・タシキル僧院で成立したものである、ということが分かる。

現在は、セラ、デプン、ガンデンをはじめとするゲルク派の総本山でひろく読まれているものであり、ゲルク派の僧侶は、出来れば毎週一度でも本詩篇を参照し、自分の仏典の学習がきちんとできているのか、検証すべきである、とも言われている。グンタン・リンポチェも学ばれた本山デプン・ゴマン学堂では、随所に本編の詩偈が教訓として記されており、仏典購読の教授群たちも、弟子たちを叱責するために、よく本編を引用している。

ゴマン学堂の旧問答法苑の高座の天蓋に書かれている本詩篇

本書はあくまでも僧院で仏典を通じて教義を学習していく出家者の集団のために書かれた教訓であるが、これはチベットの仏教僧院というものが如何なるものであり、そこで参学する僧侶たちの会衆が何を目指し、何を生の目的としようとしているのか、ということをよく表しているものであろう。チベットの僧院では、朝何時に起きて何時に寝るのか、具体的に僧院で一生生活するのはどんな気分なのか、毎日どんなものを食べていて、どんな娯楽があるのか、僧院にはどんな文化財が安置されており、それは歴史的にはどのような意味をもっているのか。出家者でもない外国人にはこういったことが知りたいという人が大勢いる。しかし僧院は観光名所ではないし、チベットのラサにあったデプンがいまはインドにあろうとも、そしてこの先デプンが何処に行こうとも、そこで追求される学問とは、このようなものであり、この方針が今後も変更されることはないと言っても過言ではない。仏典を学ぶということ、仏教を学ぶというのは一体何を目指しているのか、ということを教えている本書が伝えようとしていることは、遠い日本の在家信者である私たちにとっても決して無縁なものではないだろう。

本書の題名にもあるように、私たちは宝石の島へと行き、宝石をどのように手にしたらよいのか、ということを分からなければ、手ぶらで帰ってくるしかなく、せっかく如意宝珠よりも貴重ないまのこの人身を決して無駄にしてはならない、ということを本書は教えてくれている。同時に、私たち人間がいまこの宝石の山を眼の前にしている、ということを気づかせてくれるものでもある。仏教徒にとって如来のことばほど価値のあるものはこの世には未だかつて存在しないのであり、またこれからもまた存在することはない。自分自身の手で自分の眼を曇らせてしまうことなく、本書のような教訓をもとに、しっかりと仏典と向き合える眼を私たちが開けるように、というのがグンタン・リンポチェの本書を締めくる最後の願いである。私たちは、このグンタン・リンポチェの受け止められるのか、それは私たち次第であろう。

最後に本連載を読んでくださった、すべての法友のみなさまに感謝を込め、この訳文とそれに添えた言葉が、みなさまにとって益するものであることを願いつつ、本書の最初の教誡を再掲しておきたい。

デプン・ゴマン学堂で『中論』を伝授されるダライ・ラマ法王

有暇の所依を得て勝者の教えに出逢っている

正しい善師に師事し 友と法を共有している

こんなに恵まれた機会を得るのは稀有である

何度も得られるものではないから大義がある

先送りはもうやめて 大義を全うせよ いざ


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